死
解決しない悩みばかり抱えて辛いです。
何年も前から、死にたいって願望があり自分の体を傷つけたり首を絞めてみたりしています。
死にたくなったらどうしたらいいですか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
出離生死
解決しない問題ばかりが次々とふりかかってきて辛く、死にたいとまで考えてしまうのですね。
そして「死にたいという願望」を持ちながらも、「どうしたらいいですか?」とお尋ねになるように、本当はその思いから逃れたいと思っているのですね。
つまり本当は生きたいと、それもただ生きるのではなく、満足して生きたいという本当の願いがあるのではないでしょうか。
よくよく考えると私たちは必ず死んでいかねばなりません。問題が解決しようがしまいが死にます。死にたいという思いがあろうがなかろうが死にます。生きたいという思いがあろうがなかろうが死にます。
それなのになんで生きなければならないのか。生きてると辛い事がいっぱいある、最後は死ぬのになんで頑張らないといけないのか。
一体何のために生まれて、何のために生きていくのか。
こういう思いが渦巻いているのではないでしょうか。人間は「意味」を求める動物なんですね。自分の人生を意味で満たしたい。生きる事にも死ぬ事にも意味を見つけたいのが人間なんです。
みんなその誰も教えてくれない答えを与えて欲しいんです。でもそれは人が人に与えられるものではないんですね。なぜならそんなものはじめからないからです。私たちは意味があって生まれて来たわけではない。でもまたそれは同時に意味なく生まれて来たわけでもないんです。
縁がととのって生まれて来たんです。望んでもないけど、数えきれない様々な条件がたまたまととのって今ここにこうして生まれて来たんです。意味が先にあるんじゃなくて、生まれて来たという事実が先なんです。
あとはそれぞれ自由なんですね。
「そんなら生まれて来たくなどなかった」と嘆くのも自由です。でもそういう在り方は「空しい」と私たちはそれも知っているんです。
ですから「生まれてきてよかった」と思えるものに私たちは出会いたいんです。だから色んなものを探します。
友人・恋人・結婚相手・仕事・趣味
でもそれらは最後には全部死ぬかなくなります。生まれて来た時もそうであるように死んでいく時は一人でいかないといけないんです。
だから私たちは「本当の自分」に出会いたいのです。あるいは自分を絶対に「見放さないもの」に出会いたいのです。
私の場合はそれは南無阿弥陀仏というお念仏の教えでした。あなたの場合はなんでしょうね。
そういうものを探してみませんか?
死にたくなったらそのままに
あなたは、そうした様々な気持ちが出てきたときに、その気持を取り扱うことばかりしているのでしょう。
牛丼屋さんに行き、チーズ牛丼大盛りを頼んで、それが目の前に来た後に、並盛りにすればよかったかも、「あーやっちゃったなー」みたいなことを私は良くしますが、実際は目の前の牛丼を食べるだけ。多すぎたら残せばいい。それだけです。「あーやっちゃった」を引きずっていると目の前のチーズ牛丼すら、相手にしなくなってしまいます。
思いばかりを相手にすることは、目の前にあるリアル生活を無視することになります。
「死にたい」と思った。それだけ。手を付けない、放っておく、相手にしないことです。思いは消えます。また似たような気持ちになることはあっても、放っておくのです。心底何もしない。目の前の牛丼だけを相手てにしてればいいのです。
小鳥のさえずりでも、なんでもいいですが。リアル、今、目の前、足元で行われている、事実にのみ目を向けるのです。損得、善悪、好き嫌いのような考え方(思い)は置いておくのです。
どうにかしようとする必要もないのです。
人は生まれながらに完璧、仏様なんですから。
決して死なないで下さい
私の命に一体何人の命がつながっているのでしょうか。
1世代 2人(両親)
2世代 6人(祖父母を含む)
というふうに数えていくと・・・
16世代 131,070人
26世代 134,217,726人 日本人口約1億2千万人
32世代 8,589,934,590人 世界人口約73億人
40世代 2,199,023,255,550人 兆
50世代 2,251,799,813,685,250人 2千兆
100世代 2,535,301,200,456,460,000兆人(253溝5301穣2004杼5646垓)およそ聞いたこともないような桁です。
それでもまだ命はつながっています。
人類が誕生したのは紀元前5万年ごろといわれています。平均15歳で世代交代すると仮定すると約3千世代、それでもまだ命はつながっています。さらに遡るとサル、さらに遡ると両生類、さらに遡ると魚類、さらに遡ると微生物、それでもまだ命はつながっています。死んだ命から命は生まれません。気が遠くなるほどのおびただしい命の連鎖の結果、私の命はここに存在します。他の命も同じです。私たちはこうした重い命をいただかなければ命を長らえることができません。
お釈迦様は四諦(人生を明らかに見る4つのこと)の最初に苦諦(人生は苦しみであること)をお示しになりました。人生は苦しいものだという観点から出発すれば、喜びを感じることができます。
熱心な念仏信者であった徳川家康公は次の言葉を遺しています。
人の一生は 重荷を負うて、遠き道を行くがごとし 急ぐべからず
不自由を、常と思えば不足なし
心に望みおこらば、困窮したる時を思い出すべし
堪忍は、無事のいしずえ 怒りは、敵と思え
勝つことばかりを知って、負くることを知らざれば、害、其の身に到る
己を責めて、人を責めるな 及ばざるは、過ぎたるに優れり
慶長八年正月十五日
私たちは物事の捉え方次第で楽にもなるし、つらくもなります。
自分の力ではどうしようも無いことをお助けいただけるのが阿弥陀様です。お釈迦様はその名前を呼びなさいと弟子にお伝えになりました。「南無阿弥陀仏」と声に出して称える、これを念仏と言います。「南無」はインドの古い言葉の「ナモ」を漢字に当てはめたもので「お任せします」という意味です。念仏はいつでもどこでも簡単にできます。どうぞ実践してみて下さい。
質問者からのお礼
たくさんの回答ありがとうございます。
少し楽になれました。
少しずつ前に進めるようにしていければと思います。