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何なんだホント

回答数回答 2
有り難し有り難し 27

当たり前の事が出来ない。
昔から。
普通に話して普通に友達になる。
たったこれだけの事が出来ない。
常に嫌われる。
普通にしてても色々注意しながらでも。
今まで色々試したけど何も変わらない。
という事は私の根本的なものが最低最悪なんだろう。
ホント何で生きてるんだろ。
何もかもが嫌になる。
消えたい消えたい消えたい。
でも子供がいるから消えれない。
バカみたい。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

自己のケチつけマシンガンを封じる

お子さんから目線で申し上げます。
ウン、バカみたいだよ、ママ。👶
どうしてママそうやって、悪いところばっかり見たり口にするんでしゅか。
そのお口、ぺしぺしでしゅ!
そこから悪いもんがいっぱい出ているのでしゅ!👶

(-_-;)
「…そうか、私の行けないところはここか…。ここがいけないんだ。やっぱり、だめだ。死にたい。」←(゜Д゜♯) だーかーらー、ホラ、そこでしゅよー!
そうやって「わるく」言おうと「し始め」る!
それは、ある種のSOS信号、かまって信号、愛が不足してる信号なのでしゅ!
子供も大人も同じです。
ただ単にいじけてるのでしゅ、ママは。
求めているものを最初から決めてかかっているからいけないのでしゅ。

あらためまして、こんにちは。そばめしさん。
家族がウサギが欲しいというので、うちでウサギを飼い始めました。
可愛いウサギだって飼えば、やれウンティー💩はあっちゃこっちゃするし、コードは噛み切るし、おしっこもあっちゃこっちゃするし、ワイフは自分よりウサ公優先するし、お世話は大変、いいことなしです。あー、深夜に山に不法投棄してー。←ダメです
この「いいことなし」とケチをつける心理と同じく、悪いところばっかり見ている心理があなたを苦しめているのだと思います。

人とはイイトコロ、長所と付き合え。
太陽と自分の闇は見つめてはならぬ。
損失を嘆くより損から学びを得べし。
得るものなくてもポケモンGETだぜ。

あなたは、一時の心理に停滞する心の癖を思い切って、今日から断ち切ろうと誓願するべきです。
お寺やこういう仏教の教えをお伝えする世界というものは、求める側が真剣にならなければ何問質問してもいくつ回答が来ても何も得られません。

友達も他者とのかかわりも子供や伴侶、親とのかかわりも、みんな鏡です。
あなたがくすぶったり、ふてくされたり、悪く考えてばかりいると、本当にどんどん悪くなっちゃうのです。お寺にお越しいただき、脳内リフレッシュ、脳内リセットして、ネガティブ思考回路のコンセントを引っこ抜いてもらうことをお勧めします。
さて、その修行は今から始まります。
「どうせ寺行ったって…」(ほらほら)
「遠いし」(でたでた)
「子供いるし」(一緒にどうぞ)
「金とられるんでしょ」(不要です)
自分を変えるのは自分の「今」しかありません。いつやるの?今でしy(以下略)

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

友達ができることは当たり前のことではないですよ。むしろ有り難いことです。
人から話をされたら、私に話しをしてくれてありがとう、人に話をしたら、私の話を聞いてくれてありがとう、そう思って人と接してはどうでしょうか。
一期一会、一生に一度しかない出会い、それに感謝しながら、大切にしながら、生きていきましょうね。
友達がいることは有り難いこと、稀なことです。ですから、友達がいないからといって決して恥ずかしいことでもないし、あなたが悪いわけではありませんよ。友達がいなくても堂々とたくましく、人に優しく、日々を楽しく、生きている姿をお子さんに見せてあげてくださいね。

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有り難し
おきもち

私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答していますが、無知未熟ゆえに質問を読ませていただくことしかできないことも多々ありますがお許しください。 回答は私個人の意見や解釈もあり、場合によっては浄土宗の教義とは少し異なることもあるということをご了承ください。 また、寺の紹介ページに電話相談についても紹介していますのでどなたでも気兼ねなくご利用ください。 ハスノハのお坊さんがもっと増えますように。 合掌 南無阿弥陀仏

質問者からのお礼

丹下覚元様、三宅聖章様、お答えありがとうございます。
お二方のおっしゃりたい事、とてもよく分かります。
私もいつもいつもこのような考え方というわけではありません。
前向きに、好かれなくても気にせず、相手のいい所を見つけたい、私の長所を知ってもらえれば…と今までやってきました。
時にはやり方を変えてみたり考え方を変えてみたり。
何をしてもダメでした。
それでもいつかはと思っていましたが、最近娘の幼稚園の送り迎えのバス停が同じお母さん方から仲間外れにされている事に気づいてしまいました。
毎日笑顔で挨拶し、誰かの悪口を言ったわけでもありません。
これ以上どうすればいいのか、私がいったい何をしたというのか、仲間外れにされていると知った瞬間に何もかもが嫌になり思っている事をここに書き込みました。
書き込んだからといって何も変わらないのに。
すいません、ご意見いただけて嬉しかったです。
本当にありがとうございました。

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