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何もする気がおきません

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有り難し有り難し 34

仕事は与えられたものなのでこなしていますが、自宅にいると何もする気がおきず寝てばかりです。食事も食べないと倒れてしまうと思い、どうにかコンビニや外食ですましています。以前の質問の回答で、現実を見みなさいとのことでした。元々だらしない性格でした。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

そろそろ仏道を求める時期かと

そうやってグダグダしていてもお母さんも喜ばないでしょう。
曹洞宗では葬式の時にこのような文を冒頭に読みます。

「人はこの迷い多き世界に生まれ、人の恩と愛情とを断つことはできない。しかりといえど、恩を離れ、寂静無為の心に目覚めるものこそ真実の報恩者である。」

恩に報いるには、グダグダの人間の縛られをなくすことです。
そして、仏道を歩み、自己が自己をして真実の自己に目覚めさせるべく、何もしないようにならないといけない。あなたの何もしない状態はニートさん状態です。
仏道の言うところの何もしない人とは「絶学無為の閑道人」「無為の真人」。
何をするにも心が何も騒がなくなる。ざわつかなくなることです。
よく統治されたこころ。
よく何もなされなくなった心。
坐禅、禅の修行とは「なすことなからしむる」なり。
この自己、己をして、真に何もなさなくなること。
みな、坐禅といっても坐禅中に考え事ばかりしている。
だから、坐禅も考え事で終わる。
あなたは何もしない人の達人でしょう。
ですが、本当はまだまだ甘ちゃんなのです。
本当に何もしなくなる心を会得するまで、仏道を求めるべきなのです。
何もなされない心によってでしか、無為、無我は成し遂げられません。
報恩の行とは、坊さんにお経をあげてもらって満足するようではいけない。
自分自身が、お母様亡きあとであっても、そこにあたかもおわすがごとく、にっこりと笑ってくれるような、そういう生き方をなさるべきです。
「あー、何もする気がない」と思う、その心に縛られているのはどこのだれか。
誰の思いで誰を縛っているのか。
誰のどんな思いで、なにゆえに縛られているのか。
自分の陶酔にすぎんのではないですか。
酒に酔い、薬に酔い、夢幻に酔い、自分に酔っている。
目覚まし水は禅寺に流れています。
自分が自分の思考の酔いから覚めなければ今の状態は今後も続いていくことでしょう。
いざ、その気持ちを断ち切らんという気持ちが起きたらお寺にお越しください。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

まず御自身の為すべきこと、一つだけ取り組みましょう…

 外に出ませんか…旅しませんか…?
 何か趣味を持ちましょうよ…好きなもの、好きなこと…無ければ、探しましょう。自分で考え、生み出しましょう。
 生きがいというのは自然と生まれるものではないようです。努力して探し、育てるものです…でも、それってホント大変です。
 だから生きがいを感じられる生活は本当に幸せな状態と言えます。
 …で、どうしますか? 正直、このままなら、あなたはこのまま人生が進み、そして命終わっていきます。死に際して「あれもこれもしてない、出来なかった…でも、もう人生の時間が無い!」そんなどうにもならない『後悔の念』に苛(さいな)まされる…それって本当にツライですよね…こんな恐怖は他にないかも知れません。
 死に際にそんな思いするのイヤだ!と、あなただけでなく誰しもが思うものです。
 ならどうするか…後悔のなきように、今自分のやるべきこと、したいことを考え、少しずつでもそれを実行していくことです。面倒で投げ出したくなりますが、それしか道はありません…人生を後悔の思いで終えたくないのなら。
 そして、もう一つ後悔の中で人生を終えなくて済む道があります…それはいつも感謝の思いで生きることです。いつでもそんな思いを持って暮らしていれば、いつ如何なる形で命終えようとも後悔でなく、「感謝のうちに命を終えていく」ことが出来ます。
 浄土真宗ではそれを念仏人生と申すのですが、ここでは詳しくは触れません。
 とにかく、御自身が今したいこと、やるべきこと、先延ばしにしていること…一つでも良いので取り組んでみませんか…それがあなたの歩むべき人生の始まりになると思います。
 大丈夫です…くじけそうなときに御仏と、ハスノハ僧侶方があなたに寄り添い続けますから…。

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