寺の意味
いつも心の支えにさせてもらっております。
このサイトに来て仏教という物に関心を持ったのですが、私はお寺に行くという事が滅多になく、どういうところなのかピンと来ません。
神社とか願掛けによく行っていたのですが、お寺は大晦日くらいです。
私の家の宗派は真言宗のようですが、宗派の違うお寺でも皆さん気にせず参ったりしてるようで、ほとんど観光って感じですよね。
日本人はあまり特定の宗派に信仰心が無いのは知っていますし、信仰心が文化レベルまで落ちついているとか言われてますが、寺に観光に行けば願掛けしたり、
健康になると煙を浴びたり、神社とあまり変わらないような、
ふと思ったのですが、みんな何しにお寺に行ってるのかと、
私は神仏に対する知識はほとんど無いけれど、なんとなくのイメージとして
本来寺院は煩悩を無くし、心を正すところと思っているのですが、
願掛けなどは煩悩で、それと真逆の事なのでは?
大抵の人がお寺に参拝するときはどういう心構えなのか気になりました。
生きている意味がわからない。死ぬのも怖い。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
単なる風景ではないことは確か。
あこさん、大変良いご質問ありがとうございます。
みんなお寺に何しに言ってるの?って、ホントにその通りですよね。
たとえば、柔道場は柔道の修行をする所、剣道場は剣道の修行をする所、これらは【道場】と言われております。同様に仏道の修行をする所、つまり【寺】も道場なわけです。
※元々【道場】という言葉は仏教用語です。
ただひとくちに【お寺】=【道場】といっても、色々なスタイルがありまして、座禅修行に特化したお寺、護摩供養等に特化した祈祷所、聞法に特化した聞法道場など、実際にお寺の構造も様々です。
例えば、本願寺の御影堂は儀式をするスペースより参詣席の方が圧倒的に広く、都会のど真ん中にあります。一方、比叡山延暦寺の根本中堂などは参詣席に当たるスペースは極端に小さく、お坊さんが儀式をするスペースのほうがはるかに広い。そしてドえらい山奥にあります。お寺に行く人の中には、僧侶の身となって籠る人もいれば、占いやご祈祷を目的とする人もいれば、お説教を聞きに来る人もいます。
”本来寺院は煩悩を無くし、心を正すところと思っているのですが”
せっかくお寺に通うなら、煩悩を無くすというよりは、煩悩を制御(コントロール)することを学びたいものです。また、心を正す為にも、自分の根性がいかに曲がっているかを見つめ直すことを学びたいものです。
”願掛けなどは煩悩で、それと真逆の事なのでは?”
仰る通りかもしれませんね。
願掛けの内容は、できれば【自利利他円満】なものでお願いしたいものです。
さて、あこさんがお寺に行かれる場合は、何を目的としまようか?
できれば良き僧侶を尋ねる目的となることを
あこ様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
お寺に行く目的・・やはり、一般的には、「観光参拝」と「ご先祖様の御供養」のどちらかになっているのではないだろうかと存じます。本来あるべきとしての「煩悩を無くし、心を正す」というものとしては、まだまだであるのが現状ではないだろうかと存じます。
また、いつ、どこで求道心、菩提心(悟りを求める強い心)、仏心が芽生えるかは、やはりその人それぞれの機縁次第にもなって参ります。
結構、仏教は受け身なところもございます。求められなければ、請われなければ、教えないという感じです。もちろん、説く側の僧侶の器量の問題もありますが。。
そして、堅固な菩提心が芽生えれば、必ず良き師を求めて、お寺というよりか、僧侶を尋ねて遍歴することにもなるかと思います。
ただお寺に行けばいい、というのではなくて、確かなる仏法を実践し、しっかりと仏法を説かれている僧侶のところへと行くことにより、教えを頂くことが大切になるのではないかと考えております。
とにかく、尋ねて頂けるような、そんな僧侶となるべくにしっかりと精進して参りたいと存じます。まだまだです・・
川口英俊 合掌
真理と文化の二段構え
仏教では真理と文化を二段階に分けて、どちらも大切にしています。
真諦と世俗諦と言います。
真理は戒を守って修行して悟りを開くことで、ここには混じりっ気一つありません。求める人が真剣に行うことです。
文化は、世間で道徳を守って仲良く楽しく暮らすことです。こちらは徳を積んで幸せに生きて、死んでも来世は天界に生まれて、安楽に生きられる道です。気楽です。
先祖供養や葬儀などの死者儀礼やその他、テレビで見るような寺や神社のお祭りや行事も、文化です。道徳的であれば、徳を積む良い行為です。
寺には当然、両方の役割があります。自分は悟りのためじゃなくて徳を積みに来たんだよ、という気持ちで訪れればよいでしょう。文化ですからある程度のしきたりはあるかもしれませんが、知らなければ尋ねればいいし、世間の常識程度のものなので気にしなくてもいいし。
お寺参りしちゃおうかな、って心は、当然、良い心ですので、普段の心をさらに上げるためにも、ちょっと沈んだ心をリセットするためにも、どうぞ気軽にやってください。
人と話したい場合は探して、一人静かにいたい場合はそういうオーラを出しながら。
心の病院
ある学者さんの言うには、本来はお寺は心の病院であり、お坊さんは心のお医者さんなのだそうです。
私もそうあるべきと思います。
しかし様々な要因によってそれができない場合もありますし、仕方のないことなのです。
例えばあなたがハスノハに書かれた質問は、昔ならお近くのお寺のお坊さんに聞いて貰えばよかったこと。しかし、近年は人は田舎から都会に移り住み、近所のお寺と付き合いもなく、行ったこともないお寺に行ったり、会ったことも無いお坊さんにいきなりプライベートな話を聞いてもらうというのも難しいでしょうし、お坊さんの方でも、人の悩みを聞くことができる人ばかりでは無いという現状があるのです。
私もとてもではありませんが皆様の心の病を治す力など持ち合わせていない愚かな凡夫なのです。
そのような時代だからこそ、このハスノハのようなネットで相談できるものが生まれたということもあるのでしょうね。
なお、お寺に行く時の心構えはやはり三宝、つまり仏様、仏様の教え、仏様の教えを実践する人達、この三つの宝を敬う気持ちが大切だと思いますよ。
質問者からのお礼
転落院様
回答ありがとうございます。
なるほど、お寺の役割は心の道場という事でしょうか、
私も人から見れば些細な事で大悩みしますが、心の余裕が無くなれば妬んだり僻んだり酷いもので、そんなことも顧みず人の心を考え、人の為に行動できる心を持ちたいものです。
川口英俊様
回答ありがとうございます。
宗派も考え方も様々でいろんなお寺がありますからどこに行けばいいのかというのもありますが、いろいろと見て回ってみようと思います。
私も仏教を通して何か得るものがあればと思います。
三宅 聖章様
先日悩みに答えて頂き、心が軽くなり大変感謝しております。
やはり誰かに聞いてもらうというのは人にとっては必要なことかもしれません。昔から心の病院として、お寺も神社も教会も必要とされてできたものでもあると思います。
それ以外でも目的はあると思いますが、今までのように何も考えずにお寺に行くのでは無く、心構えを持ってみようと思います。
藤本晃(慈照)様
気軽に、そうですね。
確かに、言われて見れば一般の人が本気に仏教で悟ろうとお寺に行くかんじではないですね。
どちらかといえば文化を楽しんでいるようです。
参拝する理由がどうであれ、邪な気持ちが無ければ、徳を積むことにつながる。そう思うと気軽に尋ねて行き安いですね。