なぜ死んではいけないのか
はじめまして。お忙しい中、この質問を見てくださってありがとうございます。
表題の通り、「なぜ死ぬことが悪いのか」ということを教えて頂きたいです。
決して、今から死ぬということではありません。ただ、「いつ死のうかな。早く死にたいな」と思って生きています。思い上がりかもしれませんが、私が死んで悲しんでくれる婚約者や姉兄がいるのは知っています。それでもどうしても死ぬことを考えてしまいます。考えないように「命は尊い」と思い込もうとするのですが、イマイチぴんときません。
私が初めて死のうと思ったのは5歳の時でした。物心ついた時から両親の怒鳴り声の絶えない家庭でした。親のことはあまり思い出せませんが(理由はプロフィールに簡単に記載しております)、父親は私が言うことをきかないと決まって「じゃあお父さん今から死ぬわ。お前が言うこと聞かないから死ぬ。お前のせいで死ぬ」と目の前で自分の首を絞める振りをしたりしていました。幼稚園に入るか入らないかくらいの年齢だった私は、本能的に「死ぬ」ということがとても怖いことだと思って泣きながら謝っていました。
そのせいなのか、気付いたら私の中の「命の価値」は相手に言うことをきかせるためのトレード品程度になってしまいました。
5歳の時に死のうと思ったのは確か、家族の誰かと喧嘩をしたので自分の言うことをきかせるためだったと思います。そして少しばかり「お前のせいで私が死ぬんだぞ、責任を感じろよ」と思っていました。
大人になった今でも、どうしてもわかりません。「神から授かった命」とか「地球より重い」とか言われても全く頷けないのです。自分の命は交渉材料でしかありません。私が今死んでいないのは今まで自殺に失敗してしまった経験から二の足を踏んでいるためです。「生きたい」と思えません。死にたいとこぼすとそんなこと言うな!と頭ごなしに叱られますが、結局どうして死ぬことは悪いのでしょうか?
自分なりに考えても答えが出なかったので、皆様のお考えをご教授いただければ幸いです。よろしくお願いいたします。
命の価値が分からない。 過去を捨てられない。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
命の所有者
あなたも親父さんも、とてつもない勘違いをしていらっしゃるようだ。
自分の命は自分の所有物だと思っている。自分のものなんだから、煮て食おうが焼いて食おうが私の勝手。私のものなんだから、どうするかは自分にその権利がある、と。
仏教ではこう教えています。
《すべての命は、愛おしみ育む者のものであって、傷つけ殺そうとする者のものではない。》
あなたの命はあなただけのものとはとても言えない。あなたを育てた人たち、あなたを応援してくれた人たち、あなたを心配してくれた人たち、あなたの失敗に目を瞑ってくれた人たち、あなたが生きるために犠牲になってきたあらゆる存在…う〜ん、とても挙げきれませんが、あなたの命は彼らのものです。今では、ここであなたの質問になんとか応えようとタイプする私もその一人かな。逆に、死にたいなどとぬかしているあなたには、あなたの命の所有権なんか無いということになりますね(笑)
あなたの命は、みんなのもの。死なぬように傷つかぬように、みんなで必死に育んできました。間違っても、あなたの占有物にしてもらっては困りますねぇ。
どうしても死にたければ、今まで世話になってきたすべての人たちやこれからお世話になる人たち、あるいはあなたに食われた牛、豚、鶏、魚、野菜・・・全員の許可を得てからにするのが筋というものでしょう。
あなたが何者なのかは存じませぬが、絶対に勝手は許しません。あなたは願われて生きています。紆余曲折を経て、艱難辛苦を乗り越えて生き抜いてきて、今もなお生存しているその事実こそがその証拠です。今後はよくご承知下さいませ。
苦集滅道
「結局どうして死ぬことは悪いのでしょうか? 」
とのことですが、良い・悪いの問題ではないでしょう。あなたに「死ぬな」と頭ごなしに叱る人は死ぬ事が悪い事だからそうしているのではないと思います。
死ぬ事が悪いことっていったって全員死にますしねえ。
じゃあ「自ら」死ぬ事が悪いのかっていえば、そうする本人だってそうしたくてしてるわけじゃないし、「死にたいという考え」だって自分の力で考えようとしてそうなるものでもなく、勝手に湧き上がってくるものだし、そこを責められても困っちゃいますよねえ。
それならなんで自ら死ぬ事をとがめられるのかのか?といえば、
死ぬ事以外でその問題の解決方法があるから
ではないでしょうか。死んだら取り返しが尽きませんしねえ。
お釈迦様は真理に目覚めました。そしてその真理は仏法として現代にまで大事に伝承されてきました。
お釈迦様が目覚めた真理に四諦というものがあります。
苦諦:一切は苦しみ(思い通りにならないもの)である
集諦:苦しみには原因がある(その原因を集めているのは私の在り方である)
滅諦:苦しみは滅することができる
道諦:苦しみを滅するための道がある
時に死ぬことでしか問題を解決できないという我見にとらわれ、逃げるようにそこを求めたり、甘美なまでの響きに陶酔してそれを選んだり、衝動的に突っ走ってそうなってしまったり…様々な縁が有ることではありますが、お釈迦様は苦を滅するための道がある、すなわち問題は解決することができると説きました。
(もちろん解決するとは思い通りにならないことが思い通りになるということではなく、思い通りにしたいという思いの方が問題となる類であることを補足します。)
あなたに「死ぬな」と叱る人もそのような思いが奥底にあるのではないでしょうか。
「人身受け難く・・」
つなし様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
やはり父親からのモラハラ・パワハラによるトラウマが、希死念慮の大きな要因になってしまっているのではないだろうかと存じます・・
思い込みと申しますか、潜在的に植え付けられてしまっていると言いましょうか・・
何とかそれらを変えるためには、「命が大切」、「命は尊い」と心の底から思えるきっかけが必要であるのかもしれません。
愛する人、大切な人、子ども・・など。
仏教では、「人身受け難く・・」と申しますように、仏法のある世界に、仏法を修せられる人として命を得れることは、誠に「有り難し」として、しっかりと命のある限り、この迷い苦しみの輪廻から離れた悟り、涅槃へと至るべくに、仏法の修習に励み努めて参りたいものとなります。
悟り・涅槃へと至る流れに乗りて、しっかりと修習に努めていかない限りは、どのように死のうが、早く死のうが、長生きしようが、いずれにしても迷い苦しみに輪廻し続けてしまうこととなってしまいかねないことを危惧致します・・
できれば、これを機会に仏教へとより関心を持って頂けましたら、有り難くに存じます。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
転落院 様
私の命が私だけのものでなく、私を支えてくれた多くの人のものだという考えは目から鱗でした。「なるほどじゃあ今から命を大事にします!」と宣言できないのは申し訳ないのですが、「そういう考え方もあるのだなぁ」と深く頷いているところです。願われて生きているというお言葉、とても嬉しいです。ありがとうございます。
吉武文法 様
四締というものがあるのですね。苦しみを集めているのは確かに私自身で、この苦しみを滅する道があると教えて頂けたので少し楽になった気がします。物事を「良い悪い」の2極思考で見てしまう癖も直したいです…。
川口英俊 様
父親から価値観を刷り込まれてしまったのかもしれません…。でも、いつまでも誰かのせいにしていてはいけませんよね。命を大切にしようと思うきっかけがあれば良いのですが…。仏教は以前から興味がありましたので、これを機に学んでみようかと思います。