臓器移植について
この前、臓器移植に関する資料を貰い、家族と考えてみました。
私は死ぬのが怖いです。なので、脳死でもそれを死とは考えられないし、親がそんな状況になっても絶対に死んだとは認めないし、できる限りの延命治療をすると思います。
しかし、臓器移植を待つ方の立場になって考えてみると、それはもう死んでいるのに等しいから、脳死状態でしか手に入らない心臓なんかを譲ってほしいと考えてしまいます。
どっちの立場に立って考えるのもつらくて、頭がいっぱいになってそれ以上考えることができません。死にたくないから、誰かの心臓として生き続けるのもいいし、もしかしたら脳死から回復するかもしれない万一の可能性を信じて、心臓が止まるまで待つのもいい。自分がどうしたらいいのか分かりません。
なんか、脳死とか、死についての捉え方を変えたら自分が納得できる選択肢を選べるのでしょうか。
仏教ではどう死や脳死について捉えているのか、教えてください。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
『摂受(しょうじゅ)』
せっかく医療技術が発達しても悩み苦しむ選択肢が増えてしまうあたりがつらいところですよね。
あなたの場合、問題は死や脳死についてではないような気がいたします。
あなたは正しいです。
どちらの立場も間違いとは言えない。
そのような迷いを生むのが嫌ならば
そんなことが気にならなくなるくらい他に大事な価値があると思えるものに出会うしかありません。
たとえば
あなたは、いのちよりも大事なものがあると思いますか?
人は、いのちは何より尊いといいます。
そしたらば
臓器をあげたくないという思いと
臓器をもらいたいという思いと
相反する考えをどう収束させるのでしょうか。
いのちは何より尊い
という価値観だけでは、収束させるのは難しいでしょう。むしろ悩みが増えるかもしれません。
ならばそれとは違う価値観も知って生きるしかありません。もちろんいのちをないがしろにしろというのではありません。
けれども仏教が死や脳死をどうとらえるかはちょっと分かりにくいところがあります。通常の私たちのように生きることと死ぬことを別々に捉えてはいません。
日々生まれ変わり死に変わり一瞬一瞬細胞レベルで生きつつ死につつ、というのが私たちの「いのち」です。
そのうえで一瞬の生き死にをきちんと引き受けて、借り物のからだだと思いつつ大事に暮らすなら、
臓器移植などの場面でどのように判断しようとも、あなたなら迷いながらでも懸命に生きてゆかれることでしょう。
そのように「引き受けること」を
仏教では『摂受』といいます。
それができたならば
そこにはかすかでも、見えなくても、確かな『安心』が芽生えているのです。
あなたにとっての「あなたの死」と、ご家族にとっての「あなたの死」は明確に違うものです。
死は共有できないんです。
どうか、どちらかの立場に拘束されることより
あなたと、あなたのご家族の『意思』を共有されることを優先なさってください。
その営みがあなたの支えとなり、大事な価値となることを信じています。
脳死と植物人間の違い
まず、脳死と植物人間は違います。
植物人間は、脳が死んでいないので、意識が回復する可能性があるかもしれませんね。
しかし、脳死は、脳が死んでいるので、意識(一般的な意味の意識)が回復することは無いのです。
脳死を人の死だと考えるかどうかはそれぞれだと思います。
「人」「死」という概念はもともと「空(無我)」なのです。
つまり、「人」「死」という概念そのものが、もともと実体のない記号なのです。
日本の法律上は、臓器移植をする場合は脳死を「死」だと扱ってよいというだけの話です。
質問者からのお礼
回答ありがとうございます。
浩文さんの、違う価値観を知って生きるという言葉に、新しいことを教えられてびっくりした気持ちと、そういう考えもあるのかと、なんかこう、胸にきました。
自分では分からなかった問題の場所とか、死についての色んな新しい考えを知って、心が軽くなったように思えます。ありがとうございます。
願誉浄史さんの、脳死は意識が回復することはないという言葉に胸をつかれました。
でも、人も死も実体のない記号というのは、すごい考え方だと思うのと同時に、恐ろしさも感じてしまいました。仏教ではそのように考えているんですね。かなりびっくりしました。少し時間をかけて受け止めてみます。
お二人とも、本当にありがとうございました。