末期がんの父親にどう接したら良いかわからない
父親は胃がんを発症し、病院でも匙を投げられ緩和ケアの段階に来ています。
言葉を発する事もなくなり、食事も殆ど摂らず寝ている事が一日の大半になりました。
息子として何かしてやりたいのですが父親としてはそれを望んでいないようです。
母親も椎間板ヘルニアを患い、介護自体も辛そうです。
自分は今、孤独と焦燥感がない交ぜになったような日々を過ごしています。
いずれ父親の死を看取る事になるでしょう。
その時の心構えが頭ではわかっていてもやっぱり割り切れないのです。
父とは折り合いが悪く「くたばっちまえ!」と何百回と思いましたが、いざその時が近づくと居ても立っても居られない自分の気持ちがわからないです。
これからどう日々を生きてゆけば良いのか無明の世界に居るようなものです。
どうか助言をいただけませんでしょうか?
欲に流され、後悔と言い訳をするのが染み付いてます。わかってはいるけど熱病のように。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
浄土真宗僧侶の味わいですが
数年前に
命の残り時間が少ない友達を見舞った時
「頑張れ」と声をかけたら
「わし、もう頑張れんよ・・・」と。
「じゃあまた会おう」って
涙ながらに別れを言いました。
友達はすぐお浄土に還っていきました。
またお浄土で会う約束の確認の為にお見舞いしたんだと
今になって思うことです。
娑婆が少し寂しくなるけど
その分、お浄土が賑やかになるね
しばしのお別れだね
じゃあまたねと分かれていけるのが浄土真宗ですから。
「お父さん先にお浄土行ってて
そのうち僕も行くから・・・」
また会える世界が用意してあるって
心強くて暖かいです。
涙がでるけど悲しみの涙だけじゃないと確信してます。
目から阿弥陀様ならぬ「なみださま」が出ます。
「じゃあまたの」です。
今できることを、立ち止まらずに
2年前、59歳の母を大腸がんで亡くしました。判明したときには既に末期、わずか半年での別れでした。
私は母の期待に応えられず、たいへんに親を悲しませた娘です。ようやく和解して、これからたくさん親孝行をしようと思っていた矢先の出来事。「どうして?」と「どうすれば」だけがぐるぐると頭をめぐり、動揺して何も手につきませんでした。
そんなとき『六方礼経』に説かれた「子から親への5つの礼」が、私を救ってくれました。
母の亡き後は「親を養う」「自分の用事より親の用事を優先させる」礼はできなくなります。しかし「家系を存続させる」「相続にふさわしい良い人間になる」「亡き親の供養をする」礼はできます。いいえ、私の命ある限り、一生かけてやらなくてはならない仕事です。
そう気づいたとき、変な言い方ですが、私はとても安心したのです。
「立ち止まっている暇はないんだ。母が命がけで産んでくれた命を、こうして泣いて落ち込んで一日でも無駄にしたら、それこそ親不孝なんだ」と思いました。しっかりと自分の足で立って、強く明るく生きること。私の新しい家族と子どもたちを幸せにすること。それが私ができるこれからの親孝行です。母もそれを望み、その姿を見たいと願っていたでしょうから。
いまできることを、いままで通りに一所懸命になさってください。その上で、一緒にいられる時間を大切になさってください。私は最後に母の手を取って「お母さん、ありがとう」と伝えることができました。ですから悔いはありません。母も心残りはあったでしょうが、心配は手放して逝けたと思います。
ご家族皆さまのお心が、安らかでありますように。
手をあてる(手当)ことも看取りです
お父様のこと、どんなにかお辛いだろうと思います。居ても立っても居られないのは無理もありません。
私自身、「看取る」と一口に言われても、不安ばかりになるだろうと思います。
これまでくたっばっちまえと何百回も、とありましたが、それは誰もが通る道で、かつてお父様もおじい様に対しきっとそう思われていたでしょうから、どうぞお気になさらないでください。
目で見る、心で観る、そして手で看る、であるならば、今はタン塩さんは手でいっぱいお父様に触れられてください。そして、「あとは任せてくれ」と言って差し上げてください。たぶんお母様も喜ばれると思いますがいかがでしょうか。手で看る、それも看取りだと思います。
心で、心に寄りそう
「お仏飯はタン塩」さま。
前回は面白いご質問でしたが、今回は深刻ですね。
お父さまの病気がかなり進行しているご様子、お見舞いを申し上げます。
ぜひお伝えしたいことがあります。
私は「死の体験旅行」という元々医療者向けのワークショップを開催しているのですが、以前父親を看取った男性に受けて頂きました。
ワークショップ後の話でその方は「闘病中の父親はこんな気持ちだったのだろうかと、少しわかったような気がする。もし看病中にこれを受けていたら、もっと違った接し方が出来たのに」と仰いました。
父親と息子ですから、会えば病気の状況や治療計画など、実務的な話ばかりしてしまっていたのだそうです。でも、もっと父親の気持ちに寄りそう話をしたかった、と仰っていました。
ただ「お仏飯はタン塩」さんのお父さまは、もう言葉を交わすのも難しい状況のようです。でも人間の聴覚は最後まで機能していると聞いた事があります。ぜひ看病なさっている時に、感謝の言葉や思い出話など、話しかけて差し上げて下さい。
「その時」まで辛い日々が続くことと思いますが、その日々はお父さまの無言の教えです。しっかりと受けとめ、優しく見送ることができますよう、念じております。
H25.11.22追記
お父さま、ご往生なさいましたか。
お忙しい中、ご報告を有り難うございました。
謹んで哀悼の意を表します。
ご自身はとても落ち着いていらっしゃるようですね。
でも、喪失感などは直後にやって来るとは限りません。逆に直後は、受け入れきっていなかったり、やることが多く気が紛れていたりする場合もあります。
もしお気持ちが辛くなった時は、どうぞまたhasunohaにお書き込み下さい。
手紙という選択肢
タン塩様
自分の気持ちが分からないということですが、看取りに直面した方々誰もが通る道だと思っております。
「1+1=?」という問いの答えは「2」の一通りですが
「ブルーといえば何を思い浮かべる?」という問いにはたくさんの正解があると思います。
「割り切れない気持ち」「くたばっちまえ」の気持ち。
自分の中に浮かび上がる気持ちの矛盾に戸惑うのは致し方ないですが、どっちも正しいんですよと私は教わりました。
頭の中で考えてもぐるぐる回るだけだと思うので、自分の気持ちを日記や手紙等文字に表してみてはいかがでしょうか。
直接お父様にアピールできないけれど、本当はこんなことをしてあげたかった。
孤独感、焦り。医療や家族などの周りのコトバに対する自分の想い。 など。
ネガティブなことだけではなく、その時浮かんだお父さんや家族との思い出でもいいです。
自分の体の中に溜めこむだけではなく、毎日、何かに書くことをお勧めします。
それを、やがて来る日、棺の中に入れた方もいれば、法事の折に見返してあの時の自分を振り返った方もいます。
勇気のいる作業であることは確かですが、自分の頭の中だけで抱え込むよりも、向き合い方の道しるべにはなるかと思います。
死に直面する私たちのために仏教はあります。
意思・意志のちからで
お仏飯はタン塩さん、こんにちは。
おとうさまも、おかあさまも、お仏飯はタン塩さん自身・・どうしよう、どれから手を付けたらいいか分からない・・状態ですね。おつらいことと存じます。
人間というのは欲望につきうごかされて生活してしまうことが出来ます。
しかし、意思・意志の力でも生活することができます。
たとえ「くたばっちまえ!」と思う心があったとしても、行くのが辛くても“かならず病院へ見舞いに行く”とか、隔日でもいいから声をかけにいく。
声をかけるためには、考えることが付いてきます。考えたり、思い出したりすると、涙がでてきたり、モヤモヤしたり、気持ち悪くなったりするはずです。
当たり前です、自分にはかかえきれない「親の死」というものが迫ってくるわけですから。
でも、それだけアナタにとっては大切なことでもあるのです。どうか意思・意志の力でおとうさま・おかあさまと接してください。ノートに書くなど整理することもおすすめします。
わたしの経験からです。
お父様とどうありたいのか
お仏飯はタン塩様へ
今の現状に戸惑うこともあると思います。
しかし、何も身構える必要はありません。
普通でいいのです。
文章の中で
「父とは折り合いが悪く「くたばっちまえ!」と何百回と思いましたが、いざその時が近づくと居ても立っても居られない自分の気持ちがわからないです。」
というところがありました。
まさしくそれが親子、血のつながった関係の証なのです。
今、末期になってきているお父様には残念ながらいのちの期限がきております。
その中で今一度お仏飯はタン塩様の中で
お父様とどういう関係でありたいのか
そのことについて考えていただきたいです。
決して後悔のしないように。合掌
心からご冥福をお祈り申し上げます。南無阿弥陀仏。合掌
・・
お仏飯はタン塩様
この度は、お父様のこと、誠にご心痛の程をお察し申し上げます。
「無明の世界に居るようなもの」とおっしゃられていますように、実際に私たちは「無明」(根本的無知)により様々に苦悩することとなってしまっています。
愛する者と別れなければならない苦しみである「愛別離苦」につきましては、下記各問いにおきましても少しく扱わせて頂いております。また、皆様の回答も色々と参考になるのではないかと存じます。
http://hasunoha.jp/questions/114
http://hasunoha.jp/questions/107
http://hasunoha.jp/questions/95
http://hasunoha.jp/questions/91
「死」の苦しみに対して、私たちはいかに向き合うべきか・・私たちは必ず死する存在である以上、これは決して避けられない問題でございます。
私たちは輪廻する存在として、その相続していく心の状態において、次の赴きが決まりますが、まず大きな影響を与えることになるのが臨終に際しての心の状態であると言われております。
そのため、できるだけ穏やかに、安らかに、清らかな心の状態にて臨終に臨むことが大切となります。
例えば、臨終に際して、穏やかに安心して心が落ち着いた状態を保てるようにとして、看取る者たちが、優しく温かい言葉を掛けてあげること、感謝や報恩の気持ちを伝えること、後顧の憂いを無くしてあげれるようにすることなどを通じて、できるだけ安らかに逝かせてあげれることが必要となるのではないかと存じております。
もっとも仏教的には、確かなるご仏縁を結んで、悟り・涅槃へと向けた善き赴きがありますようにとして、善根を植ゆるために、枕経から始まって、各種のお経を誦経・回向致すことにはなります。
お父様には、是非、良い心の状態にてお経をお聞き賜るためにも、臨終に際しての看取りにて少しでもお調えを頂けましたらとは存じております。
そして、やがてくる自分の臨終に際して、如何にありたいものかということについても、また少しずつにでも調えていかれましたらとも存じております。
どうか、お父様の安らかなご臨終のございますことを心から祈念申し上げます。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
ご無沙汰しております。
今朝方、6時55分。
父、67年の生涯を全うしお浄土へ旅立ちました。
痛みも苦しみもなく寝ながらそのままお眠りになりました。
お言葉を頂いた方々には感謝をしております。
不思議と涙は出ません。
ただ、「ああ、こういうことか」という冷静な気持ちです。
極めてフラットな感情といいますか、「すべてを許した」感情です。
喪失感ですとかそういう感情もありません。
これから喪の儀式に入りますが、長男として責務はしっかり果たす覚悟です。
ありがとうございました。