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先延ばしの癖を直したい

回答数回答 2
有り難し有り難し 30

若い頃から、面倒なことを先延ばしするところがあります。
後で大変なことになる、と分かっているのに、ついつい、ギリギリまで
ほったらかしにしてしまいます。
私のトラブルのほとんどは、この性癖で起こっている、と言っても、過言ではありません。
この先延ばしする癖を直すには、どうすれば良いでしょうか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

「やらない」を選択している自分への自覚

「やる気が出ない人への処方箋」
それをやりたくないというのは、それを「それをやらない」 ということ をやっているのです。
何もしていなくても「それを行為している」と思うと良いでしょう。
❝やりたくない❞と言いながら「やらない」ことを選択してそっちをやっているということです。
そこに気づけばできない地獄、できない地獄から瞬時のうちに解放されます。
簡単なエクササイズですが、今から次のことを騙されたと思って、今すぐに!やってみてください。
あ、ここで「やらない人」は変わりません 。
人生を変えると思って必ずやってみてください。
どれか一つでも構いません。
・立ってください
・手を挙げてください
・右向いて、左向いて、アッチ向いてホイ。
・スマホの画面を見るか、画面の外でも見てください。
そういうことってすぐに出来る。
ホラ、やれてたでしょ?
割り込みが無いからできる。
条件づけがないからできる。
プライドの高い人はやろうとしない。
ところがプライドなんていうものも、その本質はただの自己の事前設定にすぎないのです。
たとえこのような単純な行為であっても それで「やれた」「できた」ということは「 絶対にできない」なんていう自分のガンコな思い込みや条件付けがそこに働いていないということです。
その条件付けが働く前に「即!」行為をしたということです 。
これは小さな 無我の証明です。
これは小さくても「大きな自由さ」の証明です。
人間は最初から自分の思ったことや自分の思い描いたルールに絶対的に支配されているわけではない!という事を、今皆さんが自ら証明されたのです。
(やってくれた人はね)
だって、よく知りもしない変なオッサン(私)から言われて、やってくれたってことは「デキる」ってことです。やれたってコトです。
デキるはずなんです。
その自分の思いのルールに支配される前のまっさらな自由な働きは今も いつでも働いているのです。
たった今も。
私たちは一度「できない」と思い込んでしまったら、できないと思っている。
それは実は「できない」ということを選択し、できないという自分の安全地帯にとどまることを選択・行為しているにすぎません。
行為としては同じなのだから、できないことはないのです。
自分流の思い方・思い込みを優先しない時はできる。
できるのです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

たった今から行動するのがいいです。
今ですよ。
後でも無く、明日でも無く、今ですよ。
いいですか?
用意!・・・・スタート!!!

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有り難し
おきもち

私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答していますが、無知未熟ゆえに質問を読ませていただくことしかできないことも多々ありますがお許しください。 回答は私個人の意見や解釈もあり、場合によっては浄土宗の教義とは少し異なることもあるということをご了承ください。 また、寺の紹介ページに電話相談についても紹介していますのでどなたでも気兼ねなくご利用ください。 ハスノハのお坊さんがもっと増えますように。 合掌 南無阿弥陀仏

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