hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

生きる気力

回答数回答 3
有り難し有り難し 71

何度も申し訳ございません。御回答頂ければで結構です。

甘えた発言ですが、もう人生に疲れてしまいました。

自分の成した悪があまりに多すぎて、また期間も長すぎて今後、善をどれだけ成しても、もう追いつかない程、今まで悪を成してしまいました。

「仏の顔も三度まで」と言うので、当たり前の事なのですが、一体何故このような人生になってしまったのか、どこから歯車が狂ってしまったのか、なぜ抜け出すことができずにこの様な、情けない人生を送ることになってしっているのだろうか。

仏様にもさすがにもうしらん!と見放されている感覚で、もう手遅れ…という言葉が頭から離れず気がつけば、何をしているのだろうか…と泣くことしかでかません。

働くこともせず、30歳を前にし派遣で2年程しか働いたこともなく、転職を繰り返し、一体今まで何をしていたのだろうか、人生が一体どうなっているのだろうかと…と悔やみ、責めるばかりで出口が見えません。

甘えてばかりいてはいけない!甘ったれていてはいけない!!と思うのですが、もう手遅れ…という言葉が頭から離れず、その気力ももたず、だんだんと死を連想してしまうようになりました。

もういつの頃からか、自分の人生をしっかりと歩んでいるという感覚もなく、頭と心とからだが常にバラバラで、自分の人生なのに、自分でもどうすればよいのかわからなく、受け入れることも出来ません。

ただただ今までの人生を振り替えって、吐き気がするだけで、これから頑張らないと!と思ってももう遅い、手遅れだ…と気力が持ちません。どうすれば頑張り続けることが出来るのでしょうか。

仏様からも見放されているし、本当に生きていけないのではないか…死にたくはなかったけど、死ぬしかないのではないか…行き止まりではないか…と頭から離れず自分でもうどうしていいかわからないので、情けないのですが投稿させて頂きました。

お忙しい中申し訳ございませんが、御回答出来ましたらどうぞよろしくお願い致します。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

デジタルですね

 何となく、「人生は最高と最低」しかないように思い込んでいませんか?このhasunohaには、他にも「私って最低」と吐露する方がいらっしゃいますが、敢えて聞けば「最低、は2人いないでしょう?」と言うはなしです。
 極端な割り切りは、じつは「粘り強さの放棄」かな、と感じます。「頑張って生き続ける」か「無気力で居続ける」という両極端なんて、人間には向いていません。「あの人、頑張ってるなぁ」と見えても、昔のCMじゃありませんが「24時間戦えない」でしょう?「出来るところはやる」「時には怠ける」ぐらいが関の山。0と1の間には、0.456とかいう半端な数が、ぎっちり詰まっているのです。で大事なのは、「0でも1でも、いくつでもイイ」ということです。0でも!
 ただ、人間いつまでも同じ所に居続けることはできません。0の瞬間もあり、次は未定です。「0で居続けたい。一日中、寝ていたい」と言っている人も、「言っているその瞬間」は起きているのです。0では居続けられないのですよ。
 あなたの「問い」で明らかにオカシイのは、「仏様に見放された・手遅れだ」と決めていることです。誰から聞きましたか?いつ「3度目」を迎えたのですか?それがあなたに感知できたのですか?
…ゴメンナサイ、口調が厳しかったですね。
あなたも仏教に触れたことがあるなら、「諸行無常」という言葉をご存じかと思います。「見捨てられた」と思っても、「見捨てられた期間」は終わるのです。変化するのです。「もうこのままだ」と思っているのは、あなたのデジタル思考です。

{{count}}
有り難し
おきもち

一般大学(一般的でもないが…)から大正大学の史学コースへ。そののちお寺。坊さんに限らず、二足のわらじを履くことで、話に幅が出るはずだと考えて、はき続けています。子育てとか家族論とか考えつつ、でも仏教って個人のものだなぁと感じたりします。

口からお奈良が出とるがな

思った事って、それが心の中で充満する。
口にせんでも、思えば思うだけでガスがたまる。
悪いこと、暗いこと、臭いこと、黒いこと、は口にしない。
これは誰でもできる。
あなたの課題は、思いもしないこと。
30秒思うのを本当にやめてみてください。
思っていない自分になる。
楽しいことを思えば、楽しいガスが心の中で充満する。
そこでもう一度自分を観てみる。
何も思っていない自分が見える。
悪いこと、くらいこと、ネガティブな思いを吐くから、ああ自分が苦しいんだ。
ああ、そうか、和尚さん、そこを教えてくれてありがとう状態になってください。(^<^)
ところが、あなたはやがて、こういうでしょう。
「でも、お坊さん、難しいです」とあなたはきっと口にする、思うでしょう。
待ってました、と言わんばかりに私は言います。
そう、その言葉こそ、暗い言葉ですねえ。
私が今いったばかりの「暗い言葉をおもうことをやめましょう」と言ったのに、全然自覚ができていなかった。だから、そこではじめて自覚してほしいのです。
「ああ、これか!これがネガティブガスの湧き出ている源泉、震源地か!」と。
あなたは、自分がネガティブなガスを出しながら、出していることに自覚がないだけなのです。あとは「ああ、これもそうか。これもそうだ。」と自分を点検しながら生きる事あるのみ。
一切、余分な思い玉がでなくなる。そうすればガスもたまらない。
事実だけを見るようになるから、あなたは必ず理知的に救われる。
自分が今何を思っているか。口にしているかを【観る目】を持ちましょう。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

手遅れなんてことないですよ。

いつでも、今からでも新しい時間が始まっています。
過去に悪いことをしたと反省していても、それは過去。思い出しても記憶にすぎません。
今しか事実はないでしょう。今からでも仕事すればいい。手遅れと決めているのはあなた自身です。自分で自分を苦しめているのです。
頑張らなくても、生きればいいじゃないですか。淡々と生きていけば安心の毎日でしょ。もっと単純にシンプルに考えてみてください。

{{count}}
有り難し
おきもち

個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

質問者からのお礼

光圓寺 佐藤様
大切な大切なお言葉を有り難うございます。問いで「仏様に見放された・手遅れだ」と決めていることが明らかにおかしいと問い詰めるように言って頂き何か心の奥底でフッと塞がっていた穴が少し開いたような気が致します。
生きていくことはもう無理なのではないか、と自分を追い詰めていましたが、0でも良いし0.456もあるとおっしゃって頂き、考え方も偏っていたと思います。また一生佐藤様に言った頂いたお言葉を胸に、繰り返し読み希望を失わずに歩んで生きたいと思います。今は気力が0だと思っていても0ではない時が来るのかも知れない!と思うと、自分で追い詰めすぎることなく、少しゆとりを持つことが出来そうです。ご回答いただきありがとうございました。

安穏寺 丹下 覚元 様
二度目の御回答を有り難うございます。
最近なのですが、前回お勧めいただいた懺悔文を心が落ち着かないときに書かせていただいております。
書いた後はとってもすっきりするのでとても良いことを教えていただいたと思っております。ありがとうございます。
今回少し思ってもいなかった観点からのアドバイスで、「30秒思うのをやめること!」常に私の頭のなかはグルグルとネガティブ思考が回っていて、ネガティブガスもとめどなく溢れています。思いや思考に惑わされずただある現実を過ごせるよう、意識してみます。ネガティブ言葉もしっかりと自分で意識してみたいと思います。ご回答頂きありがとうございました。

円通寺 邦元 様
題名を見て、心がほっとなごみました。ありがとうございます。そうですね。おっしゃる通り現実に苦しみがあるわけではなく自分によって苦しめていたのかもしれません。
手遅れではないと言っていただき、お坊さんがおっしゃるならもしかして手遅れではない?と自分に、問うて過ごしてみたいと思います。頭が「もう手遅れだ」という言葉に占領されていたのですが、少し違った考えになるかもしれません。
今は供養がしっかりできていないのか、もやがかかったままの人生なのですが、現実を淡々と生きていけるようにしていきたいと思います。ありがとうございました。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ