2年前にパワハラを受けて、非定型性の「うつ」になりました。
約2年程前、職場で上司から「来るな・辞めろ・気分が悪い」と、二度言われ、非定型性の「うつ」になりました。すぐに心療内科に行き、上司の暴言が発病の原因であると診察をうけました。約8ヶ月、会社を休職しました。
私は、労組に加盟し団体交渉をしました。
1回目 団交 上司は、暴言発言は、認めました。
しかし、謝罪は無しでした。(病気になったのは、あなたが悪いという姿勢でした。)
2回目 団交
支社長と本社から人事部の方との交渉。
・交渉内容:基本給と傷病手当金の差額
(基本給は、本来、暴言が無ければ受け取れていた金額)
・私の、休職日数の延期の申し上げ
※会社の方は、考えておくとのことでした。
しばらくし、約半年程、休職期間が延長しますとのFAXが事務所にきました。労組と私は、受け入れました。これ以来、金銭のことは、交渉の中での立場を逆転させる最後のかカードで置いておきました。(使う気は、なかったのですが・・・)
3回目 団交
始めて暴言上司が謝罪しました。
素直に受けいれました
この時に始めて、○○さん、申し訳ありませんと。
今迄、私のことを名前では、呼ばず「おい、又は、お前」としか言われていませんでした。5年もの間。
さて、病気を患っていたため、違う部署に配属になりました。仲間と言える方々と、「縁」をいただき楽しくいることができます。
そんな職場でも、今年の1月に事業所の閉鎖が決定しました。全員クビです。30人近くの方々は、泣かれていました。私も、その一人です。
私は、まだ病気を患っております。入睡眠困難、左胸から針が上がってくるように痛い感覚があります。医師からも特効薬が無いとのことです。
毎日、薬を服用しておりますと、この病気には勝てないのかな?
この病気が、わたしの人生を狂わしたと、思います。
被害者は、ずーと暗い闇の中に溶け込んでしまいそうになります。
悲しくて、将来が見えません。
この先、不安です。
また、再発する可能性もあります。
仏教では、このような問題にどのように解決されますか?
(因果応報でしょうか? でしたら、解雇された30人は、全員悪いのでしょうか? 病気になった、私がわるいのでしょうか?)
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
何れにせよ相手を恨めばそのガスで自分がより一層苦しい
はじめに申し上げておきますが、これはあなたが“解放”され“快方”に向かうためのお話。
今はお辛い状況かもしれませんが、決してあなたを責めるものではなくて、あなたを援護するものです。よって、あなたは以下の言葉によって傷つけられるべきではないし、どんな言葉の中にもマイナスイメージと結び付けない強い姿勢でのぞんでください。
これはあくまで私の個人体験です。
私がいた修行道場では罵詈雑言は当たり前でした。10年の年月の中で悪い慣習を目の当たりにしてきました。
「死ね、カス、帰れ、」…それ以外にも載せられない言葉も飛び交います。
実際に現代では「いじめ行為」とみなされるであろう行為も多々ありました。
それらの言葉、体罰をダイレクトに受けた時期は本当に被害者意識に陥ってしまったものです。
傷ついた、といえば傷つきました。
でも、私は傷つきたくはないとおもったのです。傷ついた、と自分を傷つけられた組、傷ついた組、心が折れた組 の中にずっと入れ続けてしまうときっとそこから抜け出せなくなると思ったからです。
その道場で私自身が傷つかないように学んだことを三つにまとめますと、
①被害者意識だけは絶対に持ってはならない→自分がネガティブになるだけ。一生自信が持てない状況に自分を追い込むだけだから→自分のためにも相手を恨まず被害者意識を持たない方が得策と感じました。
②どんな凄惨な光景が目の前に展開されてもそれを真っ向から受けない→距離を持つ→相手の暴威や悪意から身を遠ざける。
〈これは今の時点でもできることです。何故ならフラッシュバックなどの反復は結局今の時点で心に負担となる事を“今”思い起こすわけですから、もし思い起こされても距離を持つ〉
③言った本人はケロリとしていて今を生きている。自分は過去にこだわったまま。これではなんだか損した気持ちになる。だったら相手への憎悪の念を捨て、現在の、今日今日この日の現実の中に自分を歩ませてゆく事が自分をまずどん底からすくい上げる一番の近道です。
字数上、ここまでです。快方に向かうことをご祈念申し上げます。
闇の中から見えるものをみていきましょう
takakiさん、ご質問ありがとうございます。
パワハラを受け、「うつ」を発症される。
休職を経て、解雇。
辛い体験をされたのだと、こちらも心が痛みます。
上司のパワハラと闘われた経験、「仲間」と呼べる方々とのご縁をいただいた経験。
辛い経験の中で、こちらはあなたにとってもすばらしい経験ではなかったでしょうか。
この世は「無明の闇」と申します。
明かりが全くない状態。
それが実は私たちが置かれている状態です。
迷い苦しみ、そのなかで生きていく。
親鸞聖人は「無碍の光明は、無明の闇を破する恵日なり」と書き記されました。
(さわりのない光(阿弥陀様の光明)は、無明の闇をやぶるすばらしいお日様だ)
闇を経験されたから、阿弥陀様のお光のすばらしさに感動されたのだと思います。
あなたは、本当に辛い経験をされました。
そして、不安は続くのかもしれません。
でも、程度の差こそあれ、それは人間の生の現実でもあります。
「闇の中から見えるもの」
それをよく見て、そこから歩み始めませんか?
「質問者からのお礼」読ませていただきました。
ありがとうございます。
少し気になったことがありますので、「お礼」を受けて、ここからは書かせていただきます。
「命」を輝かせたいという思いは、本当に切なるものと感じます。
実現に向けてがんばっていただきたいと思う反面、
「生きている」そのこと自体が、大きな意味があることだということも、意識しておいていただきたいと思います。
「生きているだけで丸儲け」とか「命あっての物種」という言葉が表しているように、
辛さ苦しさから抜け出すということだけに焦点が当てられてしまうと、
「命」のありがたさを見失ってしまうかもしれません。
あなたが「生きている」そのこと自体がありがたい。
一言、それを付け加えたいと思います。
上司と正面から向き合ったtakakiさんは偉いです。
この質問の内容を読むと色々と今の社会の実情が見えてきて、パワハラ、団交、事業所の閉鎖について意見しそうですが・・・。
精神的な病にさらされながらも、パワハラを受けた上司と正面から向き合ったtakakiさんは凄いと思います。私なら同僚に愚痴をこぼしてひたすら耐える日々を送ってしまいます。『半沢直樹』といえば言い過ぎかもしれません。
事業所が閉鎖になったのは因果応報といえばそうかもしれませんが、因果応報の本来の意味は「原因に応じて結果を報いる」であり、良い意味でも使われます。「種をまけば芽が出て、作物が実る。」など。takakiさんの中では「バチが当る」のようなマイナスイメージ捉えるのが気になりました。だから、事業所の閉鎖は業績が悪いからや経営上のことであり、会社側が経営上止むにやまれぬ処置だったと思いますので、takakiさんには何の問題もないです。自分を責めてはダメ。
私も色々な挫折を味わってきましたが、根気良く行っているうちに思わぬところから救いの手が差し伸べられました。takakiさんも根気良く行動していれば、必ず救いの神のような人が現れると思います。今は自分のことしか考えられないと思いますが、いつか自分を通して、他の人にも思いやりを持てる人になることを願っております。パワハラされた人の気持ちはtakakiさんが一番良く分かっているのだから。
これからの因果の流れを良い方向へと変えていくために
takaki様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えとなります。
心の病が完全には癒えておられない中で、ようやくに楽しく感じられていた事業所の閉鎖・解雇・・将来に対して不安に陥られているのも無理のないことでございます・・
とにかくまずは完治へ向け治療に専念されて、少しずつ次のことをお考えになられて準備をお進め賜われましたらと存じます。
薬のことですが・・以前に福祉作業所にボランティアで関わっていたことがございまして、その時の経験から、個人的にはできる限り薬には頼らない治療を目指されていくことが必要であるかとは存じております。もちろんケース・バイ・ケースであり一概に言えるものでもありませんが・・薬に頼らずとも心が落ち着いて安定できる、心の癒しとなるような場所・行為・時間をなるべく増やせるようにしていかれましたらと存じております。閉じこもっては絶対にいけないのは確かかと存じております。
本題に入りますが、仏教では確かに輪廻論・業論を扱います。何事にもこの世のことにおいては、因果の理があり、「原因無くして結果無し」であります。しかし、この原因をずっとその先まで突き詰めていこうとすると、無限後退・無限遡及に陥ってしまいます。原因の原因のそのまた原因の・・という感じであります。
もちろん、経験論や帰納法・演繹法から近々の因果関係は可能な限りおいて推論できるかとは思いますが、輪廻・業についての因果の流れについては、正直、私たち凡夫ではなかなか伺い知ることは難しくあります。また、多くの集団において共通する結果をもたらすような業を「共業」(ぐうごう)と申しますが、この内容も何が共業の原因であるのか、複雑な無数の因果の流れを完全に知ることなど私たち凡夫には到底無理なことであります。
ただ、因果関係については、あらゆるモノ・コトは依存関係にて成立(縁起)していて、そのため実体として成立しているものは何らとしてあり得ないという「空」を考える上では大切なことにはなります。
字数制限上端的に、過去に過ぎ去った因果の原因を考えようとしても恐らく答えは出ません。それよりも、これからの因果の流れを良い方向へと変えていくために何ができるのか、これからのためになる行い、特に善い行いを少しずつでも進めて積んでいけれるように調えることが大切であるかと存じております。
川口英俊 合掌
人生は無常
takaki様へ
いろいろなことがあった中で
一生懸命歩まれているtakaki様は素晴らしいと私も思います。
人生において
自分ではどうしようもないことがあります。
そしてそれはすべて無常です。
その状態が永遠に続くことはありません。
今までの出来事を許し
前を向いて生きていくしかないではないでしょうか。
takaki様のお礼文にあるように
「生きたい、命を輝かせたい」という気持ちが
あれば、きっとこの先素晴らしい未来、道があることでしょう。
私も微力ながら祈っております。合掌
質問者からのお礼
お返事をしていただき、ありがとうございます。
本当に辛い経験でした。私の「命」が、危ないと感じたことがあります。
そのとき、「生きたい」と思いました。それ以来、家のご先祖様が、どこかで見てくれているような気がします。「苦しいときも・悲しいときも・嬉しいときも」、見守ってくれているようです。
「命」を輝かせたい、気持ちもあります。(もう少し、病気が治ってからですが) 限られた命の中で、精一杯、生き抜きたい、そして、人のお役に立ちたい、この気持ちを忘れず、生きていきたいです。