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お肉を食べることについて

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初めて質問致します。
生きるということは数々の命を犠牲にすることだとわかったつもりでいましたが、最近、特にお肉を食べることについて割り切れなくなってきています。

最近子供と牧場に遊びに行って、牛の乳搾りを体験致しました。乳のはった雌牛のおっぱいを握ると、あたたかくてやわらかく、涙が出そうになりました。
牛は、子牛のために乳を作り、関係のない人間に搾り取られても、文句ひとつ言わないのだと思うと心が締め付けられました。
ですが私はその夜に同じ牧場で牛肉をお腹いっぱい食べました。生きている牛に触れた感動を忘れたわけではなかったのですが、肉を食べるという行為があまりにも日常化しすぎていました。

今では毎日、命を食べることについて考えています。
例えばこの世界に私と一匹の鶏しか存在しなかったとしても私には鶏を殺め羽をむしって食すということはできません。空腹で死にそうになったとしても鶏を殺すことはできないでしょう。
なので私にはそもそも鶏肉を食べる資格はないのではないか?と思ってしまいます。パックに入って売っているので、この肉を食べるということが一体どういうことなのか、というのが見えてこないだけなのだと思います。

ベジタリアンにはなっていないので、普段の生活で肉を食べることがありますが、犠牲になった動物の命ほどの価値が自分と自分の人生にあるとは思えません。

毎日毎日、他の動物の命を奪って生きるのはとても辛いです。
そして毎日こんなことを食事のたびに考えています。一人なら良いのですが子供や夫の分の食事を私が用意しています。
私のこういった苦悩に、成長期の子供を巻き込んで、ベジタリアンにしてしまうのが正しいのかわかりません。
お肉がどのようにして食卓に並ぶのかを教えてその結果私のように悩みながら生きていってほしくはありません。
なにをどう食べて生きて何を子供に教えれば良いのでしょうか。
感謝をして食べなさいと言いますが、感謝をすれば何をしても良いのでしょうか?
なにも考えずに、お肉をお腹いっぱい食べられる人達は、私と何が違うのでしょうか。
まわりにこんな悩みを持っている人はいませんし、日本ではベジタリアンはあまりいませんよね…
最後まで読んでくださりありがとうございます。
アドバイスよろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 6件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

言いたいことを書けていなかったので書き直しました

お釈迦さまは肉食禁止定していません。最古層の規則集『四分律』には「肉食禁止は(キリスト教でいうユダに当たる)ダイバダッタが言い出し、若い僧侶はその気になっているが困ったことだ」と明記されております。

なぜ、お釈迦さまは肉食を禁止しなかったのでしょうか?

答えは簡単。良いか悪いか、二元論こそ苦の原因だからです。質問者さまは考えれば考えるほど泥沼にハマる苦のトラップにハマっているのです。おまけにこのトラップはハマったほうが人生に向き合っているように感じる誘引剤まで備えていますから厄介です。

仏教では苦の原因を3つ定義します。一つは「無明」(むみょう)「苦の構造などの真理を知らないこと」。

次に「渇愛」、つまり「もっと欲しいもっと欲しい」の「もっともっと」の部分です。ここでお釈迦様の凄いところは「もう欲しくない、もう嫌だ」と嫌う心も表裏一体であり、同じだけ苦の原因になると見抜いたことです。肉食そのものが間違っているのではありません。肉食を極端に好んだり、極端に嫌ったり二元論にするから、極端になった分だけ自分に突き刺さるのです。

3つ目の苦の原因は「取」(しゅ)です。物事に評価をつけ、取捨選択する心です。

ご質問の内容は「肉食を嫌がり」→「渇愛」、「正誤をハッキリさせる」→「取」というように、苦のシステムがフル稼働中です。

生命とは食事を含めた上での生命です。その中で植物の生命は食べていいけど、動物の生命はダメとか、鯨は賢いからダメだけど、豚は産まれながらに家畜だからイイとか、どこで拒絶するかという線引きを議論して議論して議論しても誰も救われんのです。宇宙開闢から積もり積もった歴史の結果として今の形になっているヒトを、ありのままに受けてあげないと誰も幸せにならんのです。

これは今の日本全体の社会的な病気のようなものですが、拒絶に向かう心は正義ではありません。批判に批判を重ねて便利な世の中に進んだとしても、批判は人の心を不満足に向かわせるので結局、不幸せになります。この世は一切皆苦(一切は思い通りにならない)。納得いかなくてイイんです。白黒付かなくてイイんです。そういうものだから。その一切皆苦な世界を、腹くくって受け入れて生活&子育てする覚悟を決めるしかありません。お子様にはそういう『受け入れる心』を教えてあげていただきたいと存じます。

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曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み) 最近YouTubeを...

「他者の命」の上に立つ「自分の命」

亀山純史と申します。私は浄土真宗の僧侶ですが、浄土真宗の僧侶は普段から肉食をしています。それは浄土真宗の僧侶は非僧非俗に生きる身であることを標榜しているからです。

さて、私たちは(たとえ、ベジタリアンであっても)ほかの命の上にしか生きることが出来ない存在、「他者の命」の上に立つ「自分の命」です。この事実から誰一人として逃れることは出来ません。

そして、食に対して「感謝すること」は命を殺して食することに対しての許しではなく、食に対して「自分自身に向き合う」ための行為だと思います。私たちは食への感謝を通して、ほかの命の上にしか生きることが出来ない自分自身が浮き彫りにされます。浄土真宗における誤った信心として、「本願ぼこり」というものがあります。それは、「どんなに悪いことをしても、阿弥陀如来の本願力によって許される」とする誤った考え方です。本当に自分は阿弥陀如来の本願力に依らなければ救われない身である(つまり、煩悩まみれの人間である)と感じるならば、好んで自分から悪いことをしようなどとは思わないはずです。この本願ぼこりのように感謝することを捉えてはいけません。

また、お肉がどのようにして食卓に並ぶのかを教えることは大切なことですが、是非その根底には、「自分が生きていくために、こうして命をいただいているんだ。」という視点を忘れないでください。この視点を抜きにしてしまうと、単に「動物がかわいそう。」で終わってしまい、「なぜこのようなことが行われるのか。」という「命と食の関係」「自分の命と他者の命の関係」が見えてきません。そしてその上で、ベジタリアンになるか、ならないかは、本人の自由だと思います。

最後に、シンガーソングライターのイルカさんの「いつか冷たい雨が」をご紹介いたします。(なお、イルカさんはベジタリアンです。)

https://www.youtube.com/watch?v=FLg8Qt-DdgM

“牛や鳥やおさかなも、人間の為にあるのよ・・・そんな風に言うおかあさんにはなりたくありません。でも私だって、食べて育って来たのだし、虫だって、殺したこともあります。”

食に限らず、自分の命と他者の命は切っても切れない関係にあることを考えさせてくれる一曲です。

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hasunohaを訪れてくれた皆さん、こんにちは。私は浄土真宗本願寺派の僧...

殺生戒

無駄な殺生をするなという意味ですが
言い換えると
命を活かせということです。

人間は牛を食べて残酷だ。
しかし、牛も草を食べてる、草に紛れて
虫の命を奪っている。
その虫も逃げ惑う弱い虫を頭からガリガリと食い散らしている。

命とは命でしか支えることが出来ない。
だったら犠牲になった命を活かすことが
責任じゃないか、と。
健康に暮らす、家族の幸せを考える。
これが恩返しですよ。

また、人を活かすこと自分を活かすことが出来なければそれは殺生戒を犯しているといえましょう。
子供の特性を見極める、家庭での自分の役割を果たす、それが活かすということです。

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「平等」という嘘を信じるな。 仏はこの世が不平等であり辛苦から絶対に逃れ...

動物だから残酷に感じる

そのシチュエーションを想像して感情移入し、食べられる側の気持ちになると可哀想でならなくなる、ということはあります。
それは思いで苦しんでしまうものなのです。
実際の生活の面では、そういうことを離れて無心に命を頂戴してきた歴史があるはずです。
兄鳥「おーい、ファミ吉ー、そっちに行っちゃ危ないぞー。」
弟鳥「大丈夫だよ。健太兄さん。」
人間「今日はコイツの番かー。」
兄鳥「コケー!何をする―!はなせー!ファミ吉ー!」
弟鳥「健太 兄さーん!」
人間「コイツも連れてケー」
弟鳥「コケー!やめてー!」
かくして、兄弟は引き離され兄はケンタの神様となり、かたやファミチキになられました。(泣)
売られている鳥肉にそんなドラマがあったことを考えると、申し訳ない気持ちでいっぱいになりますね。(T_T)
それでは次の物語を…
真・植物物語
豆男「僕たち、ずっと一緒だね。」
豆子「嬉しいわ。豆男さん♡」
人間「今日は、こいつらかー。」
豆男「何をする―」
豆子「豆男さーん!」
かくして豆男は木綿豆腐、豆子は絹ドーフになり、その隣の豆たちはみそになり、その横の大豆はショーユになり、後のみんなは、うすあげ、厚揚げ、がんもどき、豆スナック、モヤシ、枝豆、豆乳、きなこ、プロテインになったりして、私達の食卓のあちこちに運ばれて動物ばかりに命がある訳じゃない、ということを教えてくれつつ誰かの口にコマメに入り地球の生命全体の永遠の未来へとむけて生きのBeanとするのでした。
その命を頂いて私たちがあります。いずれわたしたちもこの命をお返しし、誰かの命が、永遠に未来へ向けて生き続けていきます。
「殺す」という言葉に殺されずに観てください。
他の命を頂戴しなければ、自分の命を殺すことになります。
自分も殺されない、動物も植物も殺さない方法は何だと思いますか?
それが、自分の思いに殺生されない生き方なのです。
ものを活用すれば、活き、用いられる。
損ない用いられれば「殺してしまった」と、心が凍る。
命を活かし生きていくこと。ライフをLIVEに変えていく事が、生活なのです。
活きた仏教を学びたければ当山坐禅会まで。

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丹下覚元(たんげかくげん)
☎お悩み相談 質問 📞08020659278 どなたでも。

涅槃寂静だけが殺生からの完全なる解放

生きている限り、例え食べなくても、他の生き物を犠牲にしないで生きるのは無理でしょうね。
私達が住んでいる家や道路が造られたとき、知らないうちに殺してしまった虫やミミズが無数にいるでしょう。
子供がいたら、蚊取り線香等を使わないわけにもいかないでしょう。
革製品・絹製品をつくるときも動物が犠牲になったでしょう。

それが嫌なら、あなた自身が生き物であることから卒業、つまり輪廻転生の繰り返しから解脱せねばならないのです。
そのためには、あらゆる煩悩を克服して生への執着もなくして、涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)に入らねばなりません。

とりあえず、日常生活では、自ら故意に殺すことはできるだけやめたほうが、煩悩をなくすための修行になります。
すでに殺されているお肉を買って食べるのは、お釈迦様だって肉料理をお布施されたら召し上がっていたと思われますので、あまり気にする必要はありません。
牛乳については、もともと子牛に飲ませるためにあるものだし、殺生しないでたんぱく質を取れるという点で、仏教徒にとってありがたい食材だと思います。

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浄土宗教師。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための...

浄土宗の「食前のことば」「食後のことば」を紹介します。

「食前のことば」
われここに食をうく
つつしみて 天地の恵みと
人々の労を 謝し奉る

「食後のことば」
われ食を終わりて
心豊かに 力身に満つ
おのがつとめにいそしみ
誓って ご恩にむくい奉らん

肉食については、他の僧侶の方も仰っているように、
あまりそれについて悩まない方がよいと思います。
他の生命をまったく犠牲にせずに、人が生きていくことはできないからです。

誰でも、思わず害虫を叩いてしまいますし、
草の上などを歩くとき、知らずのうちに、小さな虫などを踏み潰していることもあります。
野菜をつくるときに、害虫を駆除することだってあるでしょう。

植物にも命はありますので、ベジタリアンの方でも、
何かの生命を犠牲にして、自分の人生を成り立たせています。

だったら、栄養が偏ることのないよう、適度に肉食を行った方が賢明だと思います。
成長期の子供がいるのなら、なおさらです。

人は、あらゆる縁のつながりで、生かされています。
動物の肉をいただくことも、その縁のひとつです。

それを、子供にどう伝えればいいか。
「感謝すれば、何をしても良い」訳ではありませんが、
先ほど紹介した「食後のことば」にあるように、
ありがたく、いのちを頂戴したあとで、
「おのがつとめにいそしみ ご恩にむくい」ていけばよいのです。

「犠牲になった動物の命ほどの価値が、自分と自分の人生にあるとは思えません」と
仰っておりますが、自分の人生の価値を上げるのは、自分です。

大事な生命をいただいた縁により、この先、自分が何を成し遂げていけるのか。
感謝とともに、そのことを意識していくことです。

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佐山拓郎
目黒・五百羅漢寺の佐山と申します。 浄土宗教師の資格を得たあと、10年間...

質問者からのお礼

大慈様
ありがとうございます。確かに負のスパイラルというか、出口のない葛藤が渦巻いています。すべてを受け入れるのはとても難しいですね。教えていただいた3つの苦の原因大変に勉強になりました。ごはんというのは毎日食べますが、納得がいかないまま、こういうものなんだ!と思えるようになるのは時間がかかるかもしれません…だって牧場の牛さんは、とても優しい目をしていたのです。その目を見た時に、ほんとうにすみませんという気持ちになりました。牛は自分で殺して食べれませんが、葉っぱはむしって食べられます。ご回答ありがとうございました。

亀山様
ありがとうございます。お坊さんもお肉を食べて良いのですね。でも、自ら殺めることはしないですよね。お坊さんが、自ら、鳥の首をしめて、召し上がるというのは想像できません。でも出されたら食べる…これが私にはちょっと理解できません。もちろん地球で生きている以上、栄養を取らなければなりませんが、動物は殺されるときにものすごい苦しみを味わっているはずですよね…
ご回答どうもありがとうございました。

願誉様
お優しいご回答ありがとうございます。蚊取り線香は、自分の身を守るためにつけますが、生きている動物を殺して食べちゃうというのに違和感があります。
確かに私は生き物をやめたいと思っているのかもしれません。生きるのは大変なので、死んだら生まれかわりたくありません!煩悩をどうしたら克服できるのでしょうか…
気にする必要はありません、と言っていただけただけでも気持ちがほんわりとしました。どうもありがとうございました。

丹下様
ご回答ありがとうございます。
コミカルでわかりやすかったです。
私のなかではどうしても、作物を育てて食べることと、動物を殺して食べることが同じこととは思えません。鳥兄弟には脳があり、思考をし内臓がありますが…豆男さんにはないです。すべての生きとし生けるものをひとくくりにできないのです。牛は屠殺されるときに苦しみの声をあげるんではないでしょうか。豆をかる時、豆の気持ちはわかりませんがこちらにアクションしてこないので…
まだまだ修行がたりませんね。
ありがとうございました。

四次元様
ご回答ありがとうございます。お肉を食べていいよとお坊さんがたにいっていただけて、心がずいぶんと軽くなりました。
ですが、やはり、たとえばフォアグラを作るのには、ガチョウが卵から孵った瞬間、レールに乗せられ、オスはフォアグラ用のレーンに、メスは生きたままミンチにされたり、袋詰めにされ窒息させられ、廃棄されるというような事実があるなかで、感謝しながらフォアグラを食べて、良い人生を送れと言われてもやはり納得できません。納豆ごはんを食べて生きられるところを、わざわざ私に食べられるために苦しんで病気になった動物を食べる意味はどこにあるんでしょうか。

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