hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

自分を好きになるには

回答数回答 3
有り難し有り難し 31

初めまして、白狐と申します
とても長い文章になると思いますがどうか読んで頂ければ幸いです

私は自分の事が嫌いです、認められません
友人からは、頑張ってる、無理しないでなど言われるのですが私からすれば何故褒められるのか分かりません
何もしていない、みんなの方が頑張ってる、私は何もできていない
と思っています
何もできない、無力で無気力な、白いベールでドス黒い何かを必死に隠している人間だと私は思っています

周囲に良くも悪くもすぐ影響されてしまい、一時期鬱病になりました
普段から学校の部活に力を入れているので、迷惑をあまりかけたくないと顧問に勇気を振り絞って相談をしたところ、顧問は私の事を「アクセルしかない車」だと言いました
突っ走れば止まれない、そんな車

丁度去年、この時期辺りに鬱病になり再発を恐れ、どうにかしようとしています
そしてまた、最近色々なことが起こり精神的にも大分きつい状態です
ネットで調べた結果、自分を認めてあげる事が効果的という結果に至りました

しかし、自分の良いところを見つけようにも何も見つかりません
何かやれば何か失敗するし、行動をすれば裏目にでるし、毎日後悔ばかりです
もしかしたら友人などから見れば私は羨ましいところが沢山ある人間なのかもしれませんが、私からすれば愚かで汚い人間です

どうすればこんな自分を認めてあげられるでしょう
いつか何事にも打ち勝てるような精神力を得られればと思っております

大変長くなりましたが、どうか助言をお願い致します


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

汚いですが、何か?

弱い、不完全な人間が集まるこの世。
自分は弱い、汚い人間である
そう認めるのです。

弱く汚い私が本当の私だと。
肩肘はらずに済む。楽になれる。
勝てる人間より
負けて折れない人間が
素晴らしい。

{{count}}
有り難し
おきもち

「平等」という嘘を信じるな。 仏はこの世が不平等であり辛苦から絶対に逃れることの出来ない世界であるという。絶対に逃れることが出来ないにも関わらず、「平等」によって或いは「楽」によって人間が救われるというのは矛盾である。 不平等で辛苦極まりないこの世をあきらめ死後に救いを求めるのも人間否定そのものでお話にならない。 平等というのは自分が助かりたいという思いから生まれた自己優先の魔界の教えである。仏教はそうではない。 人を助けることを優先にすれば自分も救われるという考えだ。 人のために活きることで不平等が不平等でなくなり、辛苦が辛苦とも感じなくなるのである。 世のため人のために働いてみる。 「有り難う」 その言葉で、人はそれまでの苦労が苦でなくなるのである。 これが仏教の真の教えである。 生温い癒やしなどまったく意味がない。 積極的に人生を切り開くための教えに耳を傾けるべきである。 お寺やこのようなサイトの利用は一回にとどめなければならない。何度も相談するということは、まったく良くない傾向である。 お坊さんから聴く「仏の教え」によって生きる力を得て、二度とお寺に相談する必要がない幸せな人生を手に入れて欲しい。 本来ならば実際にお寺に足を運び相談すべきである。ここでご縁のあったお寺さんに必ず足を運ぶべき。それが億劫ならばその程度の悩みだということ。本当に切羽詰まっている人は必ずお寺に足を運ぶ。 その観点からご自身の悩みがどの程度のものなのかを推し量ってみることも有効であろう。 それと仏の教えが必要のない質問は無視する。なんでも応えてくれると思ったら大間違いだ。

そのままでいいのです

白狐さん、ご質問ありがとうございます。
いろいろお悩みになった末、「自分を認める」というところにたどり着かれたのですね。

それはとても大事なことだと思います。

あなたはほかの人たちから見ると「頑張っている」と評価され、「褒められる」存在だもあるようです。
しかし、あなたは自分が認められない。

よく考えてみると、それなりの美点があるのに、自分を認めないのは、「あなた」自身であるようです。

自分の理想とか、自分の考えにとらわれすぎているのではありませんか?

一度、そこから離れてみて、自分で「いいことをした」とか「がんばった」ということを日常の中から抜き出してみませんか?

私たちは、普段は意識していませんが、たくさんのご縁に支えられて生きています。

ご縁という視点で考えるならば、あなた自身が存在していることからすでに、素晴らしいことです。

「自分の理想」や「自分の考え」にちょっと目をつぶり、そのままの自分を見つめてみていただきたいと思います。

{{count}}
有り難し
おきもち

個別相談可能
真宗山元派上西山正善寺住職

自分にだけ打ち克てばよい

アレコレやらなければいけないことではありません。
自分の想いで苦しんでいるとだけ知ってください。
だから自分に打ち克てばよい、思いだけにね。あなたの自身の。(-ω-)/
自分を低いところに位置づけ、自分を損ねているのは、いつも自分の思いです。
あなたが自分の思いに嘆いている間に他の人は他の事に時間を費やしている。
他の人が自分を高めることに時間を費やしているのに、自分を低く貶めることに時間を費やしているとしたら勿体無いです。
そこに気づいたら当山の坐禅会にお越しください。
自分を好きになれない、自分が嫌いだ、という事も自分の想いにくらまされた自分の思いです。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

皆さんお返事ありがとうございます

四次元法華塔様
人間は元から汚い生きものなのでしょうか
確かに、負けて折れない人間の方が美しく思えます
私もそんな人間になれたらな、少しずつ頑張っていきます
ありがとうございます

藤堂尚夫様
私は自分に無意識のうちに厳しくしていたのかもしれません
理想の自分像があるので、それに近付こうとしていたのかも
存在している事が素晴らしいと思えるようになりたいです
本当の自分に目を向けて、小さなことでも褒めてみるようにします
ありがとうございます

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ