元暴力団員などが人生をやり直すのは許されるのかどうか
ネットで調べると元暴力団員が色々と人生をやり直してる記事が出てくるのですが他者に迷惑どころか暴力と恐怖を与える反社会的勢力に成り果てながら人生をやり直したいというのは虫が良すぎると思うのです。
これは元暴力団員に限らず不良や暴走族、自分勝手な理由で犯罪を犯した犯罪者にも言えることですが更生して人生をやり直すのは
許される事なのでしょうか?
今までさんざん好き勝手に暴力を奮ってきたのだしその報いは一生許されること無く受けるべきだと思うのですが…
皆様はどうお考えですか?もし宜しければご意見頂戴したく思います
飽きっぽい
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
自分の問題
自分の姿が明らかにならないことには人は何とでも言えるものです。一億総批評家・総裁判官時代でしょうか。
犯した罪を償うことは大事です。反省も謝罪も更生も必要でしょう。
しかし、他者に迷惑をかけないできた人は1人もいません。自分勝手でない人も1人もいません。
暴力団員や不良や暴走族と僧侶である私は何が違うでしょうか。彼らは悪人で私は善人でしょうか。
私やあなたが彼らと同じ境遇であったなら彼らと同じ振る舞いはしなかったでしょうか。
「自分は正しい、自分は罪など犯さない」のなら他人を裁けますが、仏法にわが身を問うならば、私もまた縁さえ整えばどんな重罪をも犯し得るという事実に頷かされます。
その時、私の人生にやり直しは許されないでしょうか?
あなたはやり直しの許されない人生を一生間違わず清く正しく生きられるのでしょうか?
あなたが生きづらさに押しつぶされず伸び伸びと歩めるのは寛容社会でしょうか不寛容社会でしょうか?
これは暴力団員や不良や暴走族だけの問題ではありません。誰よりもあなたの問題です。私の問題です。一人ひとりの問題です。
あなたは本当に正しいですか?迷惑をかけていませんか?誰も傷つけてはいませんか?いのちを奪ってはいませんか?
他ではなく自分が問題となるのが仏法です。
追記
「やり直し」についてはどんなに反省・懺悔しようと、これまでが「なかったこと」になるわけではありません。そういう意味では許されるも何も誰一人「やり直し」できる人はいないのです。
直せるのは「今・これから」です。これからを過去とは違う様に生きるという意味での「今これからのやり直し」の道は誰にでも開かれています。
仏教修行は懺悔から始まる
僕の修行中、同期に元ヤクザの方がいました。
背には不動明王を背負い、両手の小指がない方です。
悪さなどせず、高校生の時から修行していた僕にとって、ふた回りも上の彼との出会いは衝撃的でした。
しかし彼は、他の修行者と比べてもはるかにストイックで、多くを語らず黙々と仏さまと向かい合っていました。
ある日、師僧がみんなを集めて話をしました。
「お前ら、こいつ(元ヤクザ)と比べて自分が行をできていると思うか。わしは思わない。こいつが誰よりも熱心なのは何故かわかるか。
こいつはな、お前らと比べて、はるかに多くの罪を犯してるんや。最初からマイナスなんや。
マイナスをゼロにしようとしたら、ものすごいエネルギーがいるんや。
お前らは0か1からスタートしてるから、その苦しみはわからんやろう。
けどな、お前らも罪を犯してるんや。一つ一つの罪が小さかったり、罪を犯していることすら気づかないんや。だから、反省もない。
こいつは、許されん罪も犯して、迷惑もかけた。けれど、こいつはそれを悔いて、反省しているんや。
だから、仏さまに向かい合う心の強さや、今まで迷惑かけた分、人のために尽くそうという気持ちが誰よりも強いんや。
いまはわからんけど、10年後、お前らが自分の罪に気づかず漫然と坊主を続けていたら、こいつになんか絶対追いつけん。
仏教修行は、懺悔からはじまるんや。」
悪いことは、しないに越したことはありません。
しかし、結論から言えば、そんなことは無理です。自分でも、知らず知らず罪を犯しているんです。原罪とかじゃないですよ、あくまで生きてきたこの人生で、です。
それが大きいか小さいかだけの問題です。
私は、犯罪者や反社会的な人を許すことはできません。許さなくていいと思います。
しかし、吉武師の申す通り、仏道修行とは、自己と仏との一対一です。
その心の中の懺悔を、他人がとやかくいうことはできません。
最も愚かなのは、自分の罪に気づかず、わがままに生き続ける人間です。
それと比べれば、過去の過ちに気付いて懺悔する人は、どれだけまともでしょうか。
誰もが道を踏み外す「危うさ」の中を生きています
一応刑務所で服役者の更正をお手伝いする教誨師というお役を頂戴しております。個人情報の保護の観点から詳しい生い立ちや犯罪歴のすべてを知ることはできませんが、彼らと接する中で「生まれながらの犯罪者は居ない。」と感じております。但し、暴力団や犯罪者の道を歩む条件の中で、生まれ育ってきた方々も居ます。だからと言って、「社会が悪い」「環境が悪かった」という理由で犯罪を正当化できるものではありません。同じ環境の中に居たすべての人が暴力団員になったり、犯罪者となったりするわけではありません。平穏に日常生活を送っている人間でも、ちょっとしたことがきっかけで罪を犯してしまう可能性はあります。犯罪を正当化することは出来ませんし、犯罪者は刑期を終えたから完全に罪を償ったとは言い難いと思います。社会が犯罪者に向ける目だって、決して優しいものではありません。自分の犯した罪をずうっと背負っていかざるを得ない場合も多いと思います。しかし、一方で罪や過ちを犯した人間でも、罪を償うと同時に、人生をリスタートすることは可能であり、それが可能な世の中であるべきではないかと思います。
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今までさんざん好き勝手に暴力を奮ってきたのだしその報いは一生許されること無く受けるべきだと思うのですが
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そう思いたくなる気持ちはわからない訳ではありません。でも仏教の立場からは賛同できません。お釈迦さまは「すべての生きとし生けるものよ。幸いなれ。」と言っておられます。お釈迦さまは人種・民族により人を差別したり、身分や職業により人を差別したりしませんでした。(政治家でも社会活動家でも無いので、差別解消のための活動はなさっていないと思いますが。)
刑期を終えて出所したとしても、更正と社会復帰への道は厳しいものです。行き場が無くて、不本意ながら、再び暴力団の戸を叩かざるを得ない場合も多く、そしてまた罪を犯して刑務所に戻ってくる。そういう再犯者も多いんです。
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元暴力団員が色々と人生をやり直してる記事
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罪を償い更正できた事例は無いわけでは無いですが、すべてうまくいくわけではありません。だからこそ、「本人が一生懸命出直しに努め、社会復帰を支援する方が居た。」は珍しいことであり、珍しいから記事になるんです。すべての人が幸せに生きる世の中。それに一歩で近づけるよう、努めていきましょう。
こんにちは。
なるほど。私も小さい頃からよくいじめられ、今もいわれのない誹謗中傷を受けたりしているので、人に迷惑をかけている人に対して許したくない気持ちは確かにあります。
以前よく似たご質問に回答を入れましたので、こちらもご覧下さい。
https://hasunoha.jp/questions/25140
(更正について)
仏教としては上記リンク先に書いた回答のようになると思います。
悪い事を反省してもうしないようにしたら、「悪い事をしない人」に「生まれ変わった」と考えます。
hasunohaの中には「私はとても悪い事をしてしまいました。私は許されるでしょうか?」という相談もよく入ります。その人たちの抱えた苦しみとその回答をご覧になるのも良いと思います。
質問者からのお礼
間違った事だらけだし今も親に迷惑かけてるしで最後の問いにはすべて「いいえ」と答えます、他の問にも確実にやらない、違うとは言えません、やらないと思う、違うと思う、と曖昧に答えることは出来るのですが…
ただ一つだけ、「私の人生にやり直しは許されないでしょうか?」との問には
「はい」と今考えた段階では私は答えます。
ただ何故「はい」と答えられるのかはっきりとした理由を考えるとあやふやになって出てこないのですが…
回答ありがとうございました。色々と悩んでみたいと思います。
最初に回答して頂き更に追記までして頂いた吉武文法さま、貴重な体験談と師のお言葉をお話頂いた不悪口院 恵成さま、教誨師という服役者と更生をお手伝いする役についておられる吉田俊英さま、回答ありがとうございました。今はまだ感情的に考えてしまうのですが、この件を冷静に考えることが出来た時また違った答えが出るのでは無いかと思っています。そのときにはこの件にかぎらず物事を今までとは違う考えた方が出来るのでは無いかと思っています。
光禪さま回答ありがとうございました。
リンク先読みました。
見守ることは大事なのかもしれません…が今の私には正直理解が出来ないです…
他の方の苦しみや回答を見てみることで理解できるのかもしれないです。