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般若心経の訳を読んでもよく分からない

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般若心経をの訳を読んでもモヤッと書かれていてよくわかりませんでした。

苦しいことは永遠に続かないよ、としたら幸せも永遠に続かないよ、と解釈したのですが幸せを維持するために頑張るのは当たり前だけどそれが壊れるのを恐れちゃいけないよって考えてOKでしょうか?
てことはどうしても湧いてくる恐れはどうしたらなくなるの?とかぐるぐる考えてしまいます。

般若心経を分かりやすく教えて頂きたいです。もしくは分かりやすい訳が載っている本を教えて頂きたいです。
よろしくお願いいたします。

2018年2月25日 2:26

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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

本質を見抜く力。

ハシビロコウさん、こんにちは。

般若心経は、大乗仏教の核心を突いた、真理を説いた教えである故に、いろんな問題についての解釈ができるので、今、ハシビロコウさんが、どの考えを当てはめているのか、わからないのですが、

 私が良く使う例えに、コップをあげます。
これが何ですか?と尋ねられれば、たぶんハシビロコウさんは、コップと答えると思います。当然と思いますよね。でも花が好きな人によっては花瓶として使うこともあります。あるいはペン立てに使う人もいる。夫婦喧嘩している人ならば相手に投げる武器にもなります(笑)。
 つまりコップなのに、人の味方、使い方によっていろんなアイテムになるわけです。自分がこうだと決めつけていることは、実はあっていない場合があるのです。自分がこうだと決めつけると見方によって間違いが起こります。これは何が本質かと見極めるということは非常に難しいということです。その実体にとらわれずに本質を見極める力を、色即是空(形にとらわれず本質を見極め)、空即是色(本質から形の意味を知る)というのです。だから色即是空の「色」と空即是色の「色」は、同じモノを指しているのにまったく価値が違うのです。先ほどの同じコップの違いのことです。

 同じように、あなたに現れた苦しみも、あなたは苦しいと思うかも知れませんが、実は違う意味を持っている可能性があります。なぜその苦しみが自分に起こるのか、本質を見極めると、もしかしてその苦しみは、ただ自分を苦しめるものだけでなく、自分を鍛えるためのシグナルかも知れません。苦しみの表面だけにとらわれず、その苦しみの本質を見極める必要があります。するとその苦しみは実は幸せの裏返しかも知れないのです。

 般若心経は、仏の智慧を持って本質を見極めるお経という意味です。これが私の般若心経の味方です。そしてこれに法華経の教えが加わると、本質の答えが仏さまのお慈悲になるので、すべての現象は、なぜ仏さまのお慈悲なのかという逆の計算をしなければなりません(笑)。

 今出先での回答のため、私がお勧めする本は、紹介できませんが、是非、数冊はいろんな方の解釈を読んで、自分のあった般若心経の答えを見つけてください。あなたにあった答えは一つではないかも知れません。本を探すのも修行のうちです(笑)。合掌

2018年2月25日 3:58
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般若心経の真意

世の般若心経の解説本は大半がみな推測で書いているものだから訳せる人がいないということではないでしょうか。
仏教書というものは書く人によっては実に詐欺まがいの本が横行していると感じます。
たとえば学生時代に読んでいた本で大法輪閣というところから出ていた本で「さとりとは何か」という本がありました。先日読み返してみると要は「この人たちは誰も悟っていないのに悟りについて文書を書いているだけ」だったのです。学生時代は分からなかったのです。偉い先生が書いてるから大丈夫だろうと思っていたのでしょう。妄信というものです。
悟りは悟っていない人が論ずると推測にしかなりませんよ。
色即是空 空即是色
みんなあやふやなことばかり書いている本が多いと思いませんか。
物質の変化的なことなら小学校の理科で十分分かる知識です。
私の疑問は「はたしてお釈迦様はその程度の人だったのか」という疑問でした。
さて、ちょいとだけ般若心経の真意を記しておきます。
なぜ真意かと言うと「解釈」では百人が解釈すると意味が分かれます。それは商売・ビジネスです。俺は般若心経をこう解釈したぞ、と金儲けする人は人を救うことを目的としません。自分が新しい斬新な論で注目を浴びようとしたり定説をつくがえすことが目的なのでしょう。
では、救われる内容としての心経は何を言っているのかといいますと…
この身がモノ・コトに触れた時、こちら側にそれを操作する人がいない禅定状態・般若波羅蜜を行じている時、一切のものは「誰のものでもない」ままに作用するということが説かれています。
外で事件があっても、この身がそれを感知しなければ何も生じません。
この身心というディスプレイに現われる出来事の一切が、、、その現れ方として本当に大・1秒にも満たないくらいの一瞬の出来事の連続として体感され続けているのが空です。一切を空じているのが身心の本当のあり様だということです。
既に冒頭の文字やタイトルも眼には映っていません。聞こえる音も香りも味も感覚も、その時限りその場限りで終わり果てています。
この全自動天然浄化機能、一切を常に透過させている素晴らしい身心の働きを自覚し、その働きのままに生きていくところこだわりどころか、迷いも苦しみも生じないということです。文字の関係上この辺で。過去のQ&Aもご覧ください。
本は飯田トウ隠 井上義衍 という方がお勧めです。

2018年2月28日 8:50
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丹下覚元(たんげかくげん)
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「顛倒夢想」にあるがゆえに・・

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「般若心経を読んでもよくわからない」というのは、当然に仕方のないことでございます。

それこそ、般若心経の中に「顛倒夢想」と出て参りますように、普通の私たちのモノの見方が真理とは逆さまな誤った見方に陥ってしまっていることに、なかなか気付かないからであります。

焦らずに、その間違ったモノの見方を、仏教を通して、正しいモノの見方に調えて参りたいものとなります。

正しいモノの見方が少しずつでも調えることができて参りましたら、般若心経の内容も自ずと理解できるようになってくることでしょう。

また、下記拙論も少し参考になさられて頂けましたら幸いでございます。

『般若心経における「空」について』
http://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/93cd51b49c2264eb00fcc00a904a3392

川口英俊 合掌

2018年2月25日 14:09
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質問者からのお礼

ありがとうございます
道は険しい。。。(´・ω・`)

川口様 ありがとうございます
焦らず実感できていけばなと思います
ありがとうございましたm(__)m

丹下様
ひとつ分かったことは私は般若心経に救いを求めていたことです。
ありがとうございました。

「般若心経」問答一覧

お坊さん達ではどう実態の話をしてますか

私は般若心経に影響を受けています。 ここに机があります。私達はこれが無いと知っています。誰かが、それは机でそこにあって、木で出来ていて茶色で硬いと言います。 私にも茶色に見えるし、ぶつければ私は痛いです。 でも、やっぱり茶色は無いし、机もないし、私も無いです。 それでも痛いのは嫌で、そこに机があると考えて生活します。でも、あらためて眺めると、やっぱり無いです。 強いて言えば、さっきまであった、と言うかなと思います。でも、無いから『さっき』と言うのもいま言ったけど変だと思っていて、さっきも無いんだけど強いて言えばにすぎず、とにかくいま、机は無いよ、と思います。 私達はそこに水色のティーカップが見えていて、私にも見えています。でも、無いし、としか言いようがないく、水色もない。強いて言えば、その子が自分を水色と思っているでしょう、私もそれを水色と思っています。でも、そこに水色は無いと私達は知っています。 私達は、と言ったのは、きっと同じ話をしていると思っていますが、お坊さん達の間では違うのか、聞きたいと思いました。どこかは違うと思います。 その子の水色が無いと知っていますが、その子が「私、水色でかわいいの」と言ったら、ああ、水色だよ、それにかわいいよ、と言うと思います。 私は無いです。神も無いと思っています。私がいたら神もいる、私が無いなら神も無いと考えています。両方ある、と両方ないのどっちかしかないと思い、ところで実際どっちも無いよねえ、と思います。お坊さんはこう言っていないと思いました。 目の前に、机があり、傍らにまた水色のティーカップが見える、でも私達はこれが無いとしか見えないと思います。 私は、ひょっとして自分は時間の話をしているのかなとよく思います。 時間の話であれば、さっきと呼ぶものもなく、今机があるという事も起きていません。 今そこにあるという概念がなく、この机に対して机があると言える事実はなく、とにかくえんえん無いんだが、と思ったり仏陀は荒唐無稽で精神世界に限った話をしたのでは無さそうに思ったりします。 あると思っていて、としか言いようがない机をまた見て、もう無いとしか見えないし、ところであらためてそこに机があると言ってみる必要あるんだろうか、言わなくていいと思う、と考えたりします。私は時間の話をしているのでしょうか。 お坊さん達は違う話をしていますか?

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ぎゃーていのサンスクリット語での語感は

先程の質問で頂いた回答の一部が、ツボにはまってかなり笑い続けています。まだ眠れません。 そこで新たに質問で聞いてみたくなったので、よろしくお願いいたします。 私がはじめて般若心経を読んだ本では、ぎゃーていぎゃーていの部分は『往き往きて』と書かれていました。何年か後、別の何かで『行こう行こう』と書いてあったと思います。 最近は知らないですが、行こう行こうなのかな?と思います。 ところで私は、日本語訳と原文の英語があった場合、もちろん日本語の方が分かりやすいのですが、英語は英語で元の感触というか、日本語訳との違いを感じ、英語の方が元々伝えたかった感じをよく伝えてるだろう気がしたりします。ネイティブはまた私と違う感じで書いてるかもしれませんが、日本語訳も合ってるのに違いがある気がするって面白いなと思ったりします。ぎゃーていのサンスクリットの感じって、日本語で読んだときと違うなって思った方はおられますか? 私は『ぎゃーていぎゃーてい』と『往き往きて』では、ぎゃーていが分からなさ過ぎて違いがありません。 行こう行こう、と言ってる言葉自体が邪魔なのかな、と思いましたが、サンスクリット語を私が語学として言語を知っていたら「ぎゃーていは必要だよ!」と思ったりするのかな、と聞いてみたくなりました。

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学びと般若心経

私は霊媒体質で、何回か、質問させて頂いております。小さなころから般若心経を祖母ととなえて、お寺さまの禅宗のつどいの先生役もいたしました。 それで、いつしか、般若心経から離れてはいたのですが、介護施設で働いていて、肩こりが治らなかったおばあちゃんがなんか肩にのっているのがわかり祓ったげました。そのあと、私の体に来たのですが、治り、施設入居者の方に500円でうってる般若心経お守りをさしあげました。般若心経は空にする力が強く、悪魔、天魔も祓うまた、供養と、災厄祓う、自分自身を空にするお経と思っています。そのあと、神社に、お祓いはいったのですが、般若心経がなぜか唱えれない自分に気づきました。般若心経が怖くて仕方ないのです。また、般若心経を調べると浮遊霊をよぶだのそんな情報ばかりくるのです、数日たってから訪問介護先で、セクハラにあいました、そのときに、お守りとして、観音経25と、咄嗟に不動明王さまの真言でした。お不動さまたすけて、神様、仏さま助けて! と念じた瞬間相手の力が弱まりすぐ、車に避難。大事にはならなかったです そのあとお友達が、私の通いつけの神社に、つれてってくれて感謝しました。そのあと、急に父が般若心経の経本がほしいといいプレゼントすることにしたのですが、神道でも唱える般若心経を慣れ親しんだ私は何故唱えなくなったのだろう?と内観しました。江原さんの本に憑依されるのは自分自身が、原因とかいてあったし。おかしいな、、と。そして私は天魔に騙されてる自分に気づきました。危ない危ない、、仏恩感謝、神恩感謝。般若心経をまた、唱えたいと思いました。合掌

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般若心経とキーマカレー

いつもお世話になっております。 ここのところ、仕事の関係で4時半起きが続いています。 窓を開け放ち、心地よい朝の風を感じ、薄暗い朝が明けてゆく風景。 お日様が上ったら手を合わすととても気持ちがいいです。 毎朝、雀にパンや米粒をあげていたら、網戸を開ける音で分かるのか、どこからか数羽やってきて、チュンチュンと催促をするのが何とも可愛らしくて。 仕事に行く前に最低限のニュースだけ観てゴシップ系が始まったらTVを消す。 あーだのこーだの余計な情報は要らないのです・・・。 毎日拝読しているhasuhohaお坊さま方のご回答と、 繰り返し読んでいる一冊の禅宗老師の本が私の仏道の全てです。 こんな私も苦労はしています。いろいろあって給料は右から左。 でももう物欲もありません。すっきりとした感覚です。 一日一日、丁寧に過ごせて、ご飯食べれて、 みんなが安寧で過ごしていてくれたらそれで幸せです。 hasunohaの常連様方にも一喜一憂したり。 あー、帰ってきれくれた!(涙)とか。 でも、それはそれ。 このサイトに出逢わなかったら「人のしたことしなかったことを見ないで、自分がしたことしなかったことを見なさい」というお言葉を知らなかったかもしれません。 私にとっては、人生において非常に大きなお教え(教訓?)なのです。 さて本題ですが、この間キーマカレーを作っていたらトントントンという音に合わせて般若心経が何度も頭の中で流れてきました。 しんむーけーげーむーけーげーこー・・・この部分からばかりなのですが。 (何年か前までは普通にJ-POPが流れてましたが(笑)) 時々キッサコさんを聴いていた影響もあるのでしょうかね。 こんな時は流れに乗せて料理を作りながら唱えていたら良いのでしょうか?たぶん延々ですが・・・。 お盆前のお忙しい時節に、お気楽極まりない質問で大変恐縮です。 お手隙の時にお教えいただけると幸いです。 あ・・・仕事・体調不全・恋などに悩んでいる我が娘に、 「こだわりが過ぎると苦しみが大きくなるよ~」とメールしたら、「悪に対しては復讐しかない」と返事がきました。 囚われずに生きていければ少しは楽になるのになと思いながら娘の中にはまだまだマーラが住んでいるようです。 困ったものですが、流れにそってボチボチやっていきます。 (余談になっちゃいました。すみません。)

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般若心経の「無無明・亦無無明尽・・・」の部分について

こんにちは。 前回質問から、般若心経の「無無明・亦無無明尽・無老死・亦無老死尽」 の部分が、やはり気になってしまってるので質問させて頂きます。 この部分は十二縁起についての言及との事ですが、 十二縁起を乱暴ながら私なりに要約すると 根源的な無知(無明)→生存本能と外界知覚(行・識・名色・六処)→本能と分かち難く生じる煩悩(触・受・愛・取)→本能と煩悩で成り立つ生存(有)→生存する主体として「私」という想念が生じる(生)→「私」はいずれ死ぬ(老死) と、言う事でしょうか。 私の考えでは、この部分について般若心経は 「どんなに達観しても十二縁起の因果関係は断ち切り難い」 (「無」無明尽・「無」老死尽→否定としての「無」) けれども 「物事をありのままに見れば(空相にて照見すれば) 全てが、かけがえのない真実と分かる」 (「無」無明・「無」老死→空相、全体性としての「無」) と「無」と言う言葉が違った使われ方をしているように 思うのですが如何でしょうか? 字面通りに読めば「Aは無いけど、Aは尽き無い」と言う二律背反になり、 これでは意味の全く通らないナンセンス文章です。 この部分、般若心経を読む誰もが最初に「あれ?」と思う所ですが、 腑に落ちる説明をしている本がありません。(偉そうに言える程、 本は読んでないですが) 中には「十二縁起なんて形式にこだわるのは小乗仏教だ。 般若心経は大乗仏教だからそんなものに拘らない」 とバッサリ斬っている書籍もあります。 そんな単純なものでもないと思うのですが・・・ 解釈は色々あるかもしれませんが、お考えをお教え頂ければ幸いです。 何だかマニアックな質問になってしまいすいません。

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