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林真理子の「野心のすすめ」を読んで

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林真理子さんの「野心のすすめ」という本が70万部突破と書いてあったので、書店で買って読んでみました。

題の通り野心をもちなさいという本なのですが、読んで私はとても共感し元気にもなりました。上を目指して常に挑戦していくことは大切だと思います。
そしてこの本の中に、何かを手に入れるとまた欲しくなる。煩悩が大きすぎて全部捨て去れないからこそ野心を持てるというようなことが書かれていました。
煩悩って除夜の鐘で叩くのもあって、持っていてはいけないものというように教えられた感じがするのですが、野心を持って上に行きたいということはだめなのでしょうか?私は林真理子さんの本に励まされたので、もっと欲しいと思う気持ちを持つことは人が成長するために必要だと思います。
いかがでしょうか?


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お坊さんからの回答 5件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

モットを望むと 足モットのhotな幸せが冷めます

こんにちは。お寺❝お参りマニア❞の会、代表、金帯・金バッジの丹下と申します。
お参り、願掛けの精神からも言えることですが、我々お参りマニアマスタークラス、黒帯門下生はお願い事をいたしません。
何故ならば幸せのプロが求める幸せは、名誉金銭の物質的利益ではなく、安らぎ、穏やかさ、満たされなど精神的なご利益=心の豊かさだからなのです。
ぶっちゃけアナタが「今よりモット」を願い求めた瞬間に「今を否定し、今を打ち消す」心の働きが現れていることにお気づきでしょうか。
このカラクリに気づかなければ、他者に煽られ外にシアワセらしい影ばかりを求め、ブータンの人たちのような❝満たされ❞は一生ありません。
「今ある自分が、どこの誰、何によって、どのように支えられ、どれだけ恵まれているのか」
ありがたき稀有な恩恵、あなたの足もとの守護神オカゲサーマを度外視して、外にばかり求めても、結局足もとがお留守に。
足もとがお留守なることを知らないまま、我欲のために突き進む姿勢をバチアターリ、バチカブーリとも言うのです。
では「欲はいけない?」そうではありません。
地に足付いた成功者は、ハングリーながらも、ちゃんと家族もまわりも自分も大事にしています。関係性=縁=自分を幸せにしてくれる要素が観えているからでしょう。
人間の本分の「あるべきよう」から離れて、オレが、俺の為に…、というエゴ野心に生きた結果、自分を苦しめる心の働きとして付随するものが煩悩です。
つまり野心の中身こそ重要です。
欲望=煩悩ではありません。
生きたい、幸せになりたい、安らかになりたい、悟りを得たい、自由になりたい…何がいけないことでしょうか。これらの精神的な豊かさ、精神向上を願う、ホーリーな野心を、発菩提心と申します。
結論「もっと」の質、野心の質をもう一度問いかけ直してみましょう。
・今よりモットを求めれば、足モットがおろそかに
足もとを、モット掘って(自分を学んで)いけばモット大きな幸せが手に入ります。
そういう人畜無害(死語)な野心が私は好きです。(^<^) 
モットはもっとでも、足もと(内面)を、モット掘っていけば、モット、ホットに。hotモット…ん?どこかで聞いたフレーズ…、お腹も心も満たされますよう。

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上を目指しましょう!

林真理子さんの『野心のすすめ』を読んではいないのですが、高みを目指したり挑戦するというのはとてもいいことだと思います。宗派によってちょっと違うのですが、基本的に仏教修行者も高みを目指して挑戦しています。人間としての高みを目指し、やがてはさらなる別次元の「仏陀」というステージに上り詰めるまで努力、挑戦し続けています。
僧侶にだって、もっと世の中が平和になって欲しい、人々が安心して生きていけるようになって欲しい、という欲望がありますし、不正や悪に対する怒りもあります。それらはきっと修行の原動力になっているはずです。

煩悩とは字の如く煩わしく、悩ませるものです。今持っているものが、自分の悩みの種であるなら無い方が楽ですよ、ということです。
例えば、電車に乗った時に椅子に座るのは当たり前で快適な事です。しかし、目の前にお年寄りが立った時に「どうぞというべきかな、どうしようかな」と悩むのであれば、譲ってしまった方が気持ちが楽ではないですか?という事でしょうか。

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住職のかたわら、大道芸人PRINCOちゃんとして幼稚園保育園など各種施設、...
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必要なことです

まき様へ

以前煩悩の質問に関して触れさせていただきました。
そのときに、
煩悩でもいい煩悩と悪い煩悩があるとの話をさせていただきました。
自分を向上させたい、もっともっとがんばれるのではないか
という野心を持つことは大変いいことであると思います。

常に自分に向上心をもつこと。
今に満足せず、また違うことへ。
そのチャレンジは決して煩悩ではないと思います。合掌

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鈴木光浄
「人の一生に寄り添うことのできるお寺」を目指しております。さまざまな御縁を...
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「求不得苦」と「空と縁起」について

まき様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「野心のすすめ」は読んでおりませんが、確かに私たち人間には生きていく上においての「向上心」・「志」、ある意味での「野心」は必要であるかとは存じます。

増田様のおっしゃられるように、仏道においても「悟り」を目指すという善い「向上心」・「志」としての「菩提心」が何よりも大切なものとしてございます。

もちろん、ここで言うところの「善い向上心・志・野心」というものは、あくまでも利己的・自己保身的・自己満足的・独善的なものではなく、仏教的なる「利他心・慈悲心」としてのものが求められることになります。

「何かを手に入れるとまた欲しくなる。煩悩が大きすぎて全部捨て去れないからこそ野心を持てる」、「もっと欲しいと思う気持ちを持つことは人が成長するために必要」・・

このことは、仏教的にやや問題があるものかとは存じます。私たちの八苦の一つの「求不得苦」のことで、下記問いにても扱わせて頂きました。

問い「喜びすぎると痛い目にあいますか?」
http://hasunoha.jp/questions/87

もちろん、生きていくためには、「欲」は欠かせませんし、必要です。但し、その扱いは十分に注意しなければならないということとなります。

それは、あらゆるモノ・コトには実体が無いという「空」であるため、求めても求めても、得れたと思っても到底満足することができない次第なのですが、仏教における「空」と「縁起」の理解をしっかりと進めることにより、「足るべきところを知る」ことでの「満足」はある程度得れるのではないかとは存じております。この限られた資源の世界では、不必要までに一人が多くのものを持ってしまうと、他に困り苦しむ者たちが増えてしまうことにもなってしまい、これはかなりの悪業となるため、特にこの「貪り」については厳しく諌めなければならないことになります。

とにかく、仏教では、「悟り」・「最高の智慧」と言えども実体として存在するモノ・コトとして扱うことはできません。あくまでもこれらはしかるべき善い縁によって起こり一応、「有る」と言える「縁起」なるものでしかなく、実体視して執着することのできないものでございます。

是非、この機会に「空と縁起」につきまして少しお考えを頂けましたら幸いでございます。

川口英俊 合掌

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Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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自分、自分、自分・・・十分。おなか一杯だ。

 野心は信長の野望みたく、自分のためにすることです。綺麗な言葉に置き換えていますが、自分のためなら他の犠牲を厭わない。肉食系になりなさい。でも、法を犯しては駄目なのよ。とでも言いたい気な本でしょうか。ただ、会社の経営者になるならこの気持ちは持つべきでしょう。
 自分が自分が・・・・・・しっかりすべきだ。最近、消費税が来年から徐々に上がることにより、「自分がトクする方法」とか買い物などが評論家の間で言われていますが、この風潮は宗教家の立場からすると自分さえ良ければ、他人はどうでもいい。人の事はかまうな。かまってほしくない。どうせ裏切られるのだから。・・・どんどん慈悲が必要なくなっていきます。野心はその気持ちがなくなるということも覚悟しなくてはなりません。その気持ちが持てる程度にこの本は参考にすべきです。

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ちょい悪坊主を目指しています。尊敬する人は一休さん。
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「心構え・生きる智慧」問答一覧

夫の過去の浮気が忘れられない

浮気、不倫など自分とは無縁だと思っていたら、夫が不倫していました。 夜中に自分の部屋で女と電話している所を同居の娘に聞かれてバレました。 娘も私に言い出さなくて、2ヶ月は胸に秘めていたそうです。 女と遊び始めてからは、夫は 仕事にも行かず、女のシフトに合わせての外出、外泊、3日空けずに女と昼間からホテル。私は離婚するつもりで、探偵を雇い 証拠を揃えて、弁護士も雇い、女に慰謝料請求しました。怒り狂った夫は、私と娘に恫喝まがいの暴言を吐きましたが、結局は、慰謝料請求を取り下げて欲しいと言う事。もちろん、却下するものの、女は弁護士から送られた内容証明を無視。 弁護士からもあんな酷い態度の女性は初めてで、無視を続けてる以上、どうしようもない。訴えたところで、離婚していないのなら、判決で決まる慰謝料なんて少額。 訴えれば、私が損をすると畳み込まれました。 夫とは、よくよく話し合い、許してはいないけど、謝罪は受け入れる事にし、仕事にも復帰した夫、憑き物が取れたように、顔つきも元に戻り、平穏な毎日を送っていますが、私はあの女が許せないままになっています。夫が1番悪いことはわかっているつもりですが、無視をしつづけてる女が許せない気持ちが続いてしまってます。 自宅のパソコン、夫のLINEが同機していたので、2人のLINEやりとりはずっと見ていました。見てはいけなかったのでしょうが、探偵に情報を送るために確認していました。そのLINEには女が、離婚をそそのかしていたり、泊まりをねだっていたり、私の悪口を書いていたり、別れると言いながら、夫を呼び出しホテルで仲直りを繰り返している事がわかりました。 夫はもう一年前の事、もう終わった事と自分の中では終わらせてしまってます。 夫とは穏やかに暮らしているものの、私には落とし所が見つけられないままになっています。こんな私は見苦しいですよね? 再構築を選択したとは言え、あの頃の夫の顔つきや、暴言などがフラッシュバックしてしまいます。 こんな私にお言葉を頂ければありがたいです。残りの人生を穏やかに暮らしたいのです…

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普通の家庭への羨望、前向きにがんばれない

あまり一般的とは言えない家庭で育ちました。 親は共働きですが父親が働いたお金をすべてギャンブルに注ぎ込むため、生活費や学費がなくなり子どもの私や姉が高校に入学すると同時にバイトを始め母と一緒に生活費を工面する生活でした。高校卒業時に全部自分で責任を背負うことを決め家を出て、大学に進学しました。そして海外の大学院に進学し今に至ります。 現在私は30歳になり、海外で自分がずっとやりたかった仕事ができています。 それは子どもの頃からの地獄のようなアルバイトの生活とこれからの奨学金の返済義務を犠牲にやっとこの場所に立てているのです。なのにただ何もかも用意された環境で育ち、困ったことがあればすぐに頼れる実家や家族がいて、お金の心配をする必要なく日々を前向きに過ごせている周りの友だちが羨ましくて仕方ありません。 その上「逆境こそがんばらなきゃ!貧困を努力で乗り越えた人たちはたくさんいるよ!」「もっと賢い方法でお金を稼ぎなよ」と子どもの頃から何不自由なく育った人たちに言われても、素直に受け取れません。 周りからがんばれと言われても、そもそも子どもの頃から全部自分で稼いできた人が存在すること、親に頼れない家庭が存在することを知らない人ばかりで実際私の立場は誰にもわかってもらえないことと、周りとのスタート地点の大きな差をただただ思い知らされて心が折れそうです。 「確かにあの時もっとかんばれたんじゃないか?あの時少し怠けていたんじゃないか?」など自分の技量不足や努力不足も疑い始めました。でもこれでも立ち止まらず、立ち止まれずに心と体をぐちゃぐちゃに壊しながらも今まで一生懸命やってきました。 これからももっともっと前向きにがんばってお金を稼がなければなりません。それなのに私は今も周りの生まれた環境を羨み、比較して、なぜ私は今までもこれからもこんなに苦しまなければならないのかと絶望してしまいこれ以上がんばれないままでいます。 周りとの生まれの違いを気にせずに、どうやったら前向きにがんばれるでしょうか?

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SNSでの誹謗中傷が長い間続いています。

あるSNSで複数人、グループのような形で仲良く交流をしてた人々がいました。(以下、ネッ友たちと記載させて頂きます。) そのネッ友たちとは約4年程交流していたのですが、ある日、ちょっとした事で喧嘩をしてしまい、いわゆる喧嘩別れをしました。 喧嘩の内容は、意識のすれ違いというか、 正直なところ、何故そこまで執着して責められないといけないのだろう…といった内容です。どちらに非があるのか、聞かれれば微妙な内容です。 喧嘩をした後は速攻アカウントを削除しネッ友たちから離れました。 それから2年後のある日、たまたまネッ友たちの内の1人のアカウントを発見してしまい、興味本位で覗いてしまいました。 悲しい事に、まだ私に関する悪口が沢山書かれていました。 過去の私の投稿や発言を転載し、揶揄する内容のものもありました。 会話のやりとりもあったため、察するに仲間内で盛り上がり、当時のメンバー全員で書いているのだと思います。 とても怖く、ショックであったため、もうそのアカウントは見ておりません。 お恥ずかしい話なのですが、当時、そのネッ友たちに自身の本名などの個人情報を伝えてしまったため、いつか個人情報をインターネットにバラまかれたりしないか?と心配で仕方ありません。 住所なども特定されてしまう、または既に特定されているのではないか?と余計な妄想までしてしまい悩んでいます。 自分の失態が招いた出来事であるのは勿論承知なのですが、デジタルタトゥーを残されることが特に心配なのです。 正直なところ、2年も誹謗中傷が続いているものですから、何をされていてもおかしくないと考えております。 現在進行形で悪口が書かれる事と、個人情報がインターネットにバラ撒かれないか、という不安で大変辛いです。 毎日、普通に生活していても、ふとした瞬間に書き込まれた悪口を思い出しては辛い気持ちになり、「今も悪口を言われているのだろう。」といった悪い思考に取り憑かれています。 どうしても病的に思い出してしまいます。 私は一生、この不安や憂鬱な気持ちと付き合っていく他ないのでしょうか。 どうすればSNSでの誹謗中傷を気にせずに居られるでしょうか? 何せ粘着されている期間が期間であるため、精神的に大変参っております。 どうすれば気にならなくなるか、または立ち直り方など、心の持ちようをお教えください。

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愛染明王様のご真言を一般人が唱えて良いか

初めまして。 私は、実家の宗派が浄土真宗ですが、中学校と高校が真言宗の学校であり、真言宗のお寺によくお参りに行っております。 そのような中で、真言宗の僧侶の方がお書きになった本を拝読し、YouTubeを拝読する機会があり、愛染明王様のご真言が書かれておりました。 そこで、自分にとっての良縁が結ばれるようにと、自宅で白い紙にお願い事と自分の名前を書き、その紙を両手で挟んで 愛染明王様に語りかけ、ご真言を毎日何回か唱えております。 すると、私にとって良い意味で不思議な出来事がたくさん起こり始め、なんだか毎日が安定して楽しい未来を想像してワクワクしてまいりました。 しかし、ネットでより深く調べてみると、「ご真言を素人が唱えるのはよくない」「敬愛法は素人が安易に行ってはいけない。代償が起きることがある」と書かれており、少し不安になりました。 そこで私は、「確かに、自分はご利益の内容をきっかけにご真言を唱え始めたので、不純で恐縮だった。」と反省しつつ、 「愛染明王様のおかげさまで日々私は安心して楽しく暮らせるようになったのだから、その感謝と挨拶を、愛染明王様が祀られているお寺に伺ってお伝えしよう」と考えるようになりました。 そしてそのまま愛染明王様との繋がりを信じ、ネットの記事を気にせずご真言をお唱えしているのですが、良いのでしょうか?また、よくお参りする真言宗のお寺とは別に、愛染明王様が祀られているお寺やその他のお参りしたい神社仏閣に複数お参りに行くことは、良くないことなのでしょうか?

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楽に生きたい

私は物事をマイナスに考える癖があるようです。 いつも怒られるのではないか、誰かから攻撃されるのではないか、嫌われているのではないかとビクビクしながら生きている事に気づきました。 「ちゃんとしなくちゃ」とか「人に迷惑かけないように」とかいつも気が張っていて何処にいても誰といても休まりません。 常に自分で自分を追い詰めているようです。 かと言って他人にそういう自分の状態を出しているわけではなく、周りの人は私がそんな事考えてるなんて思ってもいないと思います。 そのギャップにも苦しいです。 私は繊細で、大体の人が気にもしないような事を気にしているようです。 人の表情を読み取ってしまったりします。(今この人言ってる事と思ってる事違うな。など) 私のような人間がいる一方で、適当に生きている人(例えば人の話を聞かない人とか、遅刻する人、挨拶しない人、無愛想な人など色々な方がいますが)は凄く自由に見えて、ルールを守らなくても難なく生きてる人もいるんだと疑問に思ってしまいます。 嫌われていると思っていた人に話をしてみたら、そんな事ひとつも思ってないよ?大丈夫だよ?と言われたのですが、表情を読めば私に対して良く思っていないような感じに見えるので、「本心では嫌いだけど大人の対応をしてくれているんだ」と疑心暗鬼になってしまって辛いです。 他人の機嫌を損ねるのが怖いですし、自分を否定されるのが怖いです。 死を考える事は無くなりましたが、1日1日を終えるのが精一杯です。 もっと自由に生きられたらどんなに楽しい人生になるんだろう…。 自分なりに改善策を調べ、何度も何度も実行していますが、なかなか考え方が変わりません。 とにかく生きづらいです。 どうすれば楽に生きられるでしょうか?

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必要以上の罪悪感を抱かなくする為には…?

最近、ちょっとしたことに罪悪感を感じてしまいます。勿論、謝るべきだなと思った事は直ぐ謝るのですが、普通の人なら気にしないようなことに対しても、謝った方がいいのかな?って何に対してもそう思ってしまうときがあります。 例えるなら、外に出かけてて、壁にカバン、もしくは手が軽くぶつかっただけでも、傷付けてしまっていてはどうしようと思って確認しても傷も何一つ無くても、明らかに自分がぶつけたところとは違う所に傷を見付けた時も、実は私がしたんじゃないか?ってモヤモヤしてしまったり、他にも普通の人なら謝らないような小さな事に対しても罪悪感を凄く感じてしまい常に謝ろうか考えてしまいます。 ですが、最近は、その何に対しても罪悪感を感じて謝ろうとするのは、相手を思って謝ろうとしてるのではなく、自分のこの何に対しても感じる罪悪感を消そうとして気持ちを押し付けようとしてるだけだと思うようになりました。 本当に相手を思うのなら、時と状況を見極めて、何の為に謝るのかを考え、相手のためになることをするべきだと思うのですが、普通なら気にしない小さな事でも、申し訳ないことをしたと思い、凄く罪悪感が出てきてしまいます。 特に、大きな失敗した時やメンタルが落ち込んでる時にこういう風になりやすいです。 どうしたら、必要以上の罪悪感を感じなく、小さな事に対して動じなくいられるような精神力を付け穏やかにいられるようになりますか?

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ