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罪を犯しました

回答数回答 2
有り難し有り難し 53

このたび、仕事で私情がもつれ罪を犯してしまい、会社に多大なる迷惑と損害を与え、また人々を自分の身勝手な行動で傷つけ裏切ってしまいました。
おそらく一番重い処分となりそうです。
悔いても悔いきれませんが、この先どのようにすることが償いとなるのか、どのように生きたら良いのかと思い質問させていただきました。
このような私ですが、お言葉頂ければ幸いです。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

過ちを犯したならしっかり反省して、これからは同じ過ちを犯さないように生きていきましょうね。そうすれば今回の過ちも無駄ではなく、あなたが成長する為の肥やしになったということです。あなたがより人間として成長することが償いに繋がるのです。
今はお彼岸ですね。お彼岸というのは仏教の修行に励む期間でもあります。
嘘をつかないように。
他人のものを奪わないように。
浮気や不倫をしないように。
生き物を殺さないように。
お酒を飲んで酔って悪いことをしないように。
このような事をできる範囲で努力してくださいね。

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有り難し
おきもち

私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答していますが、無知未熟ゆえに質問を読ませていただくことしかできないことも多々ありますがお許しください。 回答は私個人の意見や解釈もあり、場合によっては浄土宗の教義とは少し異なることもあるということをご了承ください。 また、寺の紹介ページに電話相談についても紹介していますのでどなたでも気兼ねなくご利用ください。 ハスノハのお坊さんがもっと増えますように。 合掌 南無阿弥陀仏

ワタクシに費やさざらんと行ずるなり

無私の行い
無我の行い
自分の為にやらない行い
政治家さんたちを観てください。
みんな保身保身の自分のコトしかありませんね。
あれをみていい気持ちはしないはずです。
仏教ではお誓い、お誓願を大切にします。
こまったひとをたすけてあげます。
煩悩を断ち切ります
仏の教えを学びます。
最高の人格維向けて精進します。
菩提心という心を持ってください。
お釈迦さまや祖師方が悟りを求められ、多くの人たちを救った心です。私も日々菩提心を何度でもふるい起こしてただ仏法の為に精進します。
自分の持っているチカラでもって誰かが助かればそれも一つの世のためです。
人生は人から幸せをもらっても限りがあります。
自分で求めるものも過剰になれば我欲になります。
利他行、自利利他、忘己利他といいますが、人を助けてあげる行をしてみてください。
それが人間のお最高の幸せなのです。
仕事も奉仕、まつりごと。
良き心を広めればよい政治。まつりごと。
善き心を務めればよい宗教活動。よい善玉菌活性化活動。まつりごと。
人とより良くかかわれれば良い心に導かれます。まつりごと。
まつりとは人と人の心の通い合いです。
最高の心で最高の心にお互い共鳴しあうべく、まず自らが最高の心を提供するべく勤めてみてください。私ども僧侶はそういう行をやっていますが、これは僧侶だからやる話絵ではないのです。
人が本当に救われるためにただ勤めるのみです。
ワタクシに費やさざらんと行ずる。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

早速お言葉を頂きありがとうございました。
人間として成長することが償い…目から鱗でした。
嘘や異性関係、お酒、耳がいたいです。
今回のお言葉、心して生きようと思います。
ありがとうございました。

さっそく、お一人目三宅様に続き、丹下様もおことば

ありがとうございます。
ひとと良い関わりという一文、ささりました。
良い関わりもして信用して良くしてくださってた方もいたなかで、一方で我欲が上回りこんなことになってしまったな……と思います。
つけたらなば次の仕事では、自分のできること、奉仕すべきこと見いだして精進して参りたいと思います。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ