hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

周りへの嫉妬で死にたくなります

回答数回答 4
有り難し有り難し 50

過去に勤めていた会社の人が恵まれた仕事をしていたり、友達の夫が私の夫よりも給料や仕事内容がいいと嫉妬してしまいます。
そして、心が重くなり、こんなに辛いことが続くならば死んでしまった方が楽になるかな…と考えてしまいます。
人を気にすることがなく、自分の人生を幸せだと思えるようになるには、どうしたらいいでしょうか?


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

嫉妬することの愚かさを知ってりゃ、十分立派です

人間なんて、実に弱く駄目な生き物です。褒めれば、つけあがる。叱れば捻くれる。

「目標を達成」「願いが叶った」その瞬間は嬉しい。でも、所詮は一時的に欲望を満足させただけなのだから、すぐに更なる欲望がふつふつ湧いてくるんです。そういうことへ対策として、仏教では「知足」という教えが説かれています。以前、そういう題の法話を臆面も無く人様の前でお話しさせていただいたことがあります。さらに、それを文章化してブログに載せております。

法話  足るを知る  前 http://blogs.yahoo.co.jp/dorinji/19674236.html
法話  足るを知る  後 http://blogs.yahoo.co.jp/dorinji/19688865.html

じゃあ、人様の前でわかったような顔をして法話している私が嫉妬心なんぞ起こさず、「足るを知る」日々を送っているか?残念ながら、答えはNoです。生きている限り、「迷い」と「気づき」の繰り返しです。人と比べて増上慢を起こしたり、人と比べて落ち込んだりしてます。自分という人間の進歩の無さにも落ち込んでおります。でも、そういう気づきを大事にして、少しでも「足るを知る」穏やかな日々を増やして行こう。そう思いながら、仏さまにお仕えしております。

 ダーバラさんは自分の中の「嫉妬心」を冷静な目で見ることが出来る方だと思います。だからこぞ、自分の嫉妬心に嫌気がさしてくるんだと思います。つまり、「素晴らしい気づき」を繰り返しているのだと思います。完璧に「足るを知る」日々を送れなくても、少しずつ「足るを知る」日々を増やしていくことは出来ますよ。

{{count}}
有り難し
おきもち

個別相談可能
 目の前の方の悩みや気持ちをしっかりと受け留め、心を開いてもらうように努めております。決して容易いことでは有りませんが、一期一会の気持ちで相談に、葬儀法事に励みたいと思います。    最初法学部部にで学び、4年間ほど公務員をしていました。(税務署勤務)その当時の学びと経験を終活相談に活かしたいと思います。                                              昭和63年5月に住職となってから、30年が過ぎてしまいました。仏教学・禅学もそこそこ真面目に学んだつもりですが、宗教学・宗教民俗学に力を入れて学びました。そういう分野については丁寧な回答が出来るかも。
一人一人の気持ちに寄り添い、傾聴に徹して、心をほぐしてあげられるよう、努めたいと思います。 それと同時に、完璧に出来るとは限りませんが、其の人が歩むべき方向を一緒に考えてあげたり、次の一歩を踏み出せるよう背中をおしてあげられるよう、努めたいと思っております。

平凡な日常が幸せ

食うに困らない、雨露しのげる家もある。
そんな状況で嫉妬したり愚痴ったりできる。それが幸せなんです。
そんなあなたを羨む人も世の中にはいるということです。

{{count}}
有り難し
おきもち

「平等」という嘘を信じるな。 仏はこの世が不平等であり辛苦から絶対に逃れることの出来ない世界であるという。絶対に逃れることが出来ないにも関わらず、「平等」によって或いは「楽」によって人間が救われるというのは矛盾である。 不平等で辛苦極まりないこの世をあきらめ死後に救いを求めるのも人間否定そのものでお話にならない。 平等というのは自分が助かりたいという思いから生まれた自己優先の魔界の教えである。仏教はそうではない。 人を助けることを優先にすれば自分も救われるという考えだ。 人のために活きることで不平等が不平等でなくなり、辛苦が辛苦とも感じなくなるのである。 世のため人のために働いてみる。 「有り難う」 その言葉で、人はそれまでの苦労が苦でなくなるのである。 これが仏教の真の教えである。 生温い癒やしなどまったく意味がない。 積極的に人生を切り開くための教えに耳を傾けるべきである。 お寺やこのようなサイトの利用は一回にとどめなければならない。何度も相談するということは、まったく良くない傾向である。 お坊さんから聴く「仏の教え」によって生きる力を得て、二度とお寺に相談する必要がない幸せな人生を手に入れて欲しい。 本来ならば実際にお寺に足を運び相談すべきである。ここでご縁のあったお寺さんに必ず足を運ぶべき。それが億劫ならばその程度の悩みだということ。本当に切羽詰まっている人は必ずお寺に足を運ぶ。 その観点からご自身の悩みがどの程度のものなのかを推し量ってみることも有効であろう。 それと仏の教えが必要のない質問は無視する。なんでも応えてくれると思ったら大間違いだ。

「嫉妬への気づき」と「それを受け止めてくれる存在」を心に。

亀山純史と申します。
嫉妬とは他人に対しての怒りです。「どうして自分には出来ない生活が、あの人には出来るのか。」「なぜ自分は出世できないのに、あの人は出世できるのか。」等々。嫉妬とは、「自分は出来ないこと」が主ではありません。「相手が出来ていること」が主です。「相手が出来ていること」に対しての腹立たしさです。

なぜ、自分のことでないのに、腹立たしく思うのか。それは、そこに私たちが常に抱えている煩悩、「自己中心の思い(我執)」があるからです。「自分はこうありたい。」という思いが「自分はこうでなければ気が済まない。」という思いになっているのです。ですから、たとえば自分の子どもの成功体験は、親としては誇らしいものではありませんか。決して、「自分が子供の頃には出来なかったのに、どうして自分の子どもには出来るのか。」なんて思う親はいないと思うのです。それは、そこに「自分はこうでなければ気が済まない。」という思いがないからでしょう。一方、自分の子どもではなく、他人の子どもの成功体験だとどうでしょうか。もしかしたら、「自分の子どもは出来ないのに、なんであの人の子どもには出来るのか。」という嫉妬の思いが生じるかもしれません。それはそこに「自分の子どもはこうでなければ気が済まない。」という思いがあるからではないでしょうか。

つまり、私たちは、他人のことでありながら、それを自己中心の思いの中に取り込んでしまっているのです。「他人は他人であり、自分ではない。」「自分は自分の生き方、自分の人生を大切にしていくのみである。」という境地に立てれば、嫉妬をしなくなるでしょう。しかし、これはそう簡単に出来ることではありません。それは、私たちが抱える「自己中心の思い(我執)」は非常に根深いものだからです。

では、どうすればよいのでしょうか。「自分はこうでなければ気が済まない。自己中心的な思いであった。」と気づくこと、そしてそのような気づきの思いを受け止めてくれる存在を持つこと、そうすることで嫉妬をしながらも、前向きな人生を歩むことが出来るのではないかと、私は思っています。そして、私にとって、そのような気づきの思いを受け止めてくれる存在こそ、(私の宗派では)阿弥陀如来なのです。

以上が私からの回答です。少しでも参考になれば幸いです。

{{count}}
有り難し
おきもち

hasunohaを訪れてくれた皆さん、こんにちは。私は浄土真宗本願寺派の僧侶です。令和6年3月に、公立高校の教員を勧奨退職しました。その後、縁あって、令和6年4月からは「まちサポ雫石」というNPO法人のお手伝い、また、令和6年10月からは公立高校の非常勤講師をしています。 浄土真宗における僧侶は、仏さまの教えに生き、その教えを伝える者であり、人を悩みから救う能力を有した者ではありません。人の悩みを救う救いの主は阿弥陀さまです。ですので、hasunohaにおける私の回答では、仏さまの教えに救われているこの私の生き方、考え方を、皆様にお見せするだけです。そして私自身、お答えできるご相談の範囲はそう広くはありませんが、皆様のお役に少しでも立てればと思い、回答させて頂いております。

比べない

ダーバラさん、ご質問ありがとうございます。

ほかの人が自分より恵まれている。
何で自分は恵まれていないのか?

人間であれば、きっと多くの人がそういうことを気にして、心を悩ませるのではないかと思います。
でも、それは、比べるから起こることだとも言えます。

人間は、どうしても、価値をお金ではかったり、何か数値に置き換えて判断してしまうようです。

避けられないことかもしれませんが、そこからちょっと離れてみませんか?

仏様の物差しは、メモリがないと言われています。
あるいは、人間のメモリを遙かに超える大きさだとも言われます。

自分のメモリを、ほんの少しでも、大きなメモリに変えてみませんか?

{{count}}
有り難し
おきもち

個別相談可能
真宗山元派上西山正善寺住職

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ