周りへの嫉妬で死にたくなります
過去に勤めていた会社の人が恵まれた仕事をしていたり、友達の夫が私の夫よりも給料や仕事内容がいいと嫉妬してしまいます。
そして、心が重くなり、こんなに辛いことが続くならば死んでしまった方が楽になるかな…と考えてしまいます。
人を気にすることがなく、自分の人生を幸せだと思えるようになるには、どうしたらいいでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
嫉妬することの愚かさを知ってりゃ、十分立派です
人間なんて、実に弱く駄目な生き物です。褒めれば、つけあがる。叱れば捻くれる。
「目標を達成」「願いが叶った」その瞬間は嬉しい。でも、所詮は一時的に欲望を満足させただけなのだから、すぐに更なる欲望がふつふつ湧いてくるんです。そういうことへ対策として、仏教では「知足」という教えが説かれています。以前、そういう題の法話を臆面も無く人様の前でお話しさせていただいたことがあります。さらに、それを文章化してブログに載せております。
法話 足るを知る 前 http://blogs.yahoo.co.jp/dorinji/19674236.html
法話 足るを知る 後 http://blogs.yahoo.co.jp/dorinji/19688865.html
じゃあ、人様の前でわかったような顔をして法話している私が嫉妬心なんぞ起こさず、「足るを知る」日々を送っているか?残念ながら、答えはNoです。生きている限り、「迷い」と「気づき」の繰り返しです。人と比べて増上慢を起こしたり、人と比べて落ち込んだりしてます。自分という人間の進歩の無さにも落ち込んでおります。でも、そういう気づきを大事にして、少しでも「足るを知る」穏やかな日々を増やして行こう。そう思いながら、仏さまにお仕えしております。
ダーバラさんは自分の中の「嫉妬心」を冷静な目で見ることが出来る方だと思います。だからこぞ、自分の嫉妬心に嫌気がさしてくるんだと思います。つまり、「素晴らしい気づき」を繰り返しているのだと思います。完璧に「足るを知る」日々を送れなくても、少しずつ「足るを知る」日々を増やしていくことは出来ますよ。
平凡な日常が幸せ
「嫉妬への気づき」と「それを受け止めてくれる存在」を心に。
亀山純史と申します。
嫉妬とは他人に対しての怒りです。「どうして自分には出来ない生活が、あの人には出来るのか。」「なぜ自分は出世できないのに、あの人は出世できるのか。」等々。嫉妬とは、「自分は出来ないこと」が主ではありません。「相手が出来ていること」が主です。「相手が出来ていること」に対しての腹立たしさです。
なぜ、自分のことでないのに、腹立たしく思うのか。それは、そこに私たちが常に抱えている煩悩、「自己中心の思い(我執)」があるからです。「自分はこうありたい。」という思いが「自分はこうでなければ気が済まない。」という思いになっているのです。ですから、たとえば自分の子どもの成功体験は、親としては誇らしいものではありませんか。決して、「自分が子供の頃には出来なかったのに、どうして自分の子どもには出来るのか。」なんて思う親はいないと思うのです。それは、そこに「自分はこうでなければ気が済まない。」という思いがないからでしょう。一方、自分の子どもではなく、他人の子どもの成功体験だとどうでしょうか。もしかしたら、「自分の子どもは出来ないのに、なんであの人の子どもには出来るのか。」という嫉妬の思いが生じるかもしれません。それはそこに「自分の子どもはこうでなければ気が済まない。」という思いがあるからではないでしょうか。
つまり、私たちは、他人のことでありながら、それを自己中心の思いの中に取り込んでしまっているのです。「他人は他人であり、自分ではない。」「自分は自分の生き方、自分の人生を大切にしていくのみである。」という境地に立てれば、嫉妬をしなくなるでしょう。しかし、これはそう簡単に出来ることではありません。それは、私たちが抱える「自己中心の思い(我執)」は非常に根深いものだからです。
では、どうすればよいのでしょうか。「自分はこうでなければ気が済まない。自己中心的な思いであった。」と気づくこと、そしてそのような気づきの思いを受け止めてくれる存在を持つこと、そうすることで嫉妬をしながらも、前向きな人生を歩むことが出来るのではないかと、私は思っています。そして、私にとって、そのような気づきの思いを受け止めてくれる存在こそ、(私の宗派では)阿弥陀如来なのです。
以上が私からの回答です。少しでも参考になれば幸いです。
比べない
ダーバラさん、ご質問ありがとうございます。
ほかの人が自分より恵まれている。
何で自分は恵まれていないのか?
人間であれば、きっと多くの人がそういうことを気にして、心を悩ませるのではないかと思います。
でも、それは、比べるから起こることだとも言えます。
人間は、どうしても、価値をお金ではかったり、何か数値に置き換えて判断してしまうようです。
避けられないことかもしれませんが、そこからちょっと離れてみませんか?
仏様の物差しは、メモリがないと言われています。
あるいは、人間のメモリを遙かに超える大きさだとも言われます。
自分のメモリを、ほんの少しでも、大きなメモリに変えてみませんか?