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なんで仏教を選んだの?

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仏教以外の様々な思想が存在するこの世界で、お坊さん方々は何故、仏教を選んだのですか?「実家がたまたまお寺だったから」とか、「娑婆を捨てるつもりで仏門へ」などのきっかけがあったと推測しますが、今現在もお坊さんであり続け、仏教を信じ続ける理由って何でしょう(「坊さん=ただの職業」論の僧侶は除きます)。

例えば、哲学の普遍的テーマは「幸せとは何か」ですが、継がなければならない寺などない自由の身であれば、これが人生のテーマだという人は仏教じゃなくて哲学でもいいですよね。でも、仏教一本に決めちゃう人もいる。すると、個人としては哲学を学ぶことは出来るけれど、僧侶という立場上、仏教の教えに反することは表立って言えなくなったり、思考を限定されたりすることもあると思うのですが・・・実際はどうなんでしょう。


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お坊さんからの回答 5件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

仏教は、心の世界の総合学問だからです。

とてもうれしい質問ですね。お坊さんとして生きる身として、そういった事を想ってくれるのは、とても励ましになります。ありがとうございます。

まず、なぜ仏教を選んだか。
それは、仏教は心の世界の総合学問だからです。
もちろん、哲学や他宗教の勉強もします。しかし、仏教ほど自分の内面と向き合い、問題に立ち向かい、かつそれを実行に移して他人までも救っちゃおう、なんていう教えは仏教以外にありません。
仏教は、神にも、他人にも、環境にも頼りません。
ただ『教え』と『教えを学ぶ自分』という燈明だけを頼りに、真っ暗闇の悩みの世界を突き進みます。仏にすがる、仏に救いを求めるというのも、それを人格と仮定する方便もありますが、基本的には『真理そのもの』が仏という山頂であり、その道のりを説いた釈尊の『教え』がその登山道のようなものなのです。

仏教は、哲学的な思惟もします。
キリスト教のように他人を救いもします。
科学者のようにものごとの真理も追究します。
そして、自分に向き合う瞑想も行います。

弘法大師空海は「仏法は遠くにあるのではない、心の中にあってとても近いものだ」とおっしゃいました。
自分の内面に、究極まで向き合うことで、科学的な実証を伴わなくても真理にいたることができる。そして、それをただ自分のものにするためでなく、他人を救うために用いてしまう。こえが仏教のいいところです。リアリストであり、慈悲深い。
世の中は苦しみに満ちているとか言いながら「世界は美しい」とか言っちゃう。ニヒリズムとは対極を行くのが仏教です。

そんな仏教に、心を射抜かれてしまったんです。
お経を唱えて葬式あげるのはお坊さんのつとめのごくごく一部。
自分と向き合って、どうすればみんな幸せになれるのか・・・
それをずーーーーっと考えているのが、お坊さんの生き方です。

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高野山で修行をしておりました、恵成と申します。 現在、高野山をご案内する...

唯一、思想・思考ではない宗教であるからです。

世界に存在する宗教というものの大半は人間が創造・作成したストーリーによって成り立っているものがほとんどではないでしょうか。仏教の分野にもそういうものもあると思います。
それでないものを見極めれられるかどうか。
人が作ったものはどこまで言っても創作物です。
思想や思考によって展開された世界観というものは、どこまでいっても生きている人間が考えたものですから限界があるものです。
人間が作った条件付けに縛られてしまう。
誰かだけが得をする。自分たちだけが正しい。周りは邪悪。そのルールを犯すことがタブー。
そういう思想や主義に染まるようになる。
それでは全世界の人を等しく安らぎの心へはご案内ができないのではないでしょうか。
禅仏教には思考や主義がありません。
思想や主義というものは「考え」「人間がアタマで描いたもの」なのです。
それでは、その考えに賛同できない人や眉唾の人、理知的な人は救われません。
その思想で共に共感できる人たちの間では強力な結束力があると思います。
お釈迦さまは裸一貫で悟りを得られました。
現代僧侶たちのように仏教書片手になにかの勉強をしたわけでもありません。
何も持たず、何も為さず、何も掴まず。
仏教という思想(思想に準ずる思想もあるため)すら捨てて「真にただの人」になられました。
その究極の只の人が仏陀・覚者・大悟者です。
あらゆる苦しみから救われて、自己の想念からも自由になれる心。
これは誰にでも得られるのです。
誰にでも得られるからこそ価値があります。
誰が作ったものでもないからこそ、全世界の人を救い得る力を持つと思っております。
あの宗派の人は救えないとか、あの宗教の人は救えないという内容であると、それは思想・主義というものです。
仏教にも「仏教思想」というものがあります。
本来の仏教は「思想ではない」ものです。
本来の仏教が思想ではないということがお分かり頂けませんと仏教の本当の真意はつかめません。
思想の仏教は仏教学者たちによってまとめられたものです。
釈尊の原点の仏教や道元禅師の原点の仏教には主義や思想が存在しないのです。
道元禅師はそれゆえに「禅宗とも曹洞宗ともいわんでいい」とすら言っておられます。
通常であれば宗派根性や自分たちの宗派びいきの心があるものでしょうが、それすらありません。純粋な仏法とは人間の思想・主義が介在しないのです。

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丹下覚元(たんげかくげん)
かくげん和尚の電話おなやみ相談  📞08020659278 そのモ...

選ぶも何も…

国語、数学、理科、社会、英語、体育、音楽、技術家庭科、美術、、、
医学、心理学、文学、経済学、建築学、天文学、、、
社会学、文化人類学、工学、物理学、法学、、、
福祉、教育、商売、、、

まあ何でもいいんだけど。
とにかく仏教は『万学の基礎』だと私は確信する。

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最近、【レンタルお坊さん】はじめました。 とりあえず何でも相談してくださ...

解脱するため

 なぜ仏教を学び,実践し続けるのか.それは,一切の衆生を輪廻から救い,解脱するためであります.
 ご質問にもありましたように,「幸せとはなにか」とは西洋であれ,東洋であれ,普遍的に論じられてきたテーマです.幸せを考えるとき,ほとんどの思想では「現世の私」を主語として考えます.自己と他者を区別せず,「幸福」という概念についての議論もあるかと思いますが,それでも基本的には「この世で,私がいかに幸福になるか」といった暗黙の前提があります.

 しかしながら,我々は輪廻の世界の中で,生まれては死に,生まれては死にを繰り返す存在です.たとえ,この世で幸せになったとしても,来世ではどうなるかわかりません.そして,この輪廻の世界にとどまる限り,必ず生老病死が待っており,思い通りにならないことがごまんとあり,苦しみを味わい続けます.
 その苦しみの世界から脱することを目的にするのが仏教です.仏教では,輪廻に縛り続ける根本的な原因を探し,それをいかに排除するかということが考えられます.そして,その思想に付随して,認識論や存在論,時間論などが語られます.
 したがって,幸せとは何かと考えた時,それは輪廻から解脱することだと考え,仏教の思想を学び,実践しているのです.

 また,「個人としては哲学を学ぶことは出来るけれど、僧侶という立場上、仏教の教えに反することは表立って言えなくなる」ということはありません.何か仏教で間違っているなと思うことがあれば,それは徹底的に議論をするべき事柄です.ただそれはサンスクリット語やチベット語,漢文ができて,仏教をかなり勉強しなければできないことですが..

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ご縁

tuchigami様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

選んだというよりも、ご仏縁、ご縁ということになりますでしょうか。。

ちなみに「全ては縁起し空である」というのが仏教思想哲学において重要な見解となります。

釈尊の時代にも、六師外道と言われるような代表的な思想家たちがおりましたが、現代に至るまでのいかなる思想哲学であれども、釈尊のお説き示されました真理には、手前味噌なことではございますが、誠に圧倒されるところがございます。

仏教の思想哲学は、それを「信じる」というよりも、その真理を真に自らが修行を進めることで体得したい、という感じになりますかね。。

是非、その真理の一つの参考として、龍樹大師の「根本中論」から、ツォンカパ大師の「密意解明」に至るまでの中観思想、そして、仏教の示す世俗諦と勝義諦という二つの真理(二諦)について学ばれて頂けましたら有り難くに存じます。

川口英俊 合掌

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川口 英俊
チベット仏教 ツォンカパ大師中観思想・後期二諦説の研究

質問者からのお礼

回答ありがとうございます。
それぞれのご意見に共通して「仏教を勉強するうちに、あらゆる学問や事柄に通じているものだと分かった。だから、選んだってことじゃない。信じる・信じないって話じゃない。だって、ただ事実を認めたってことなんだから」みたいなお気持ちをビシビシ感じました。
「ちげーよ!」って声が聞こえそうなくらいに・・・不勉強で申し訳ありません。

ただ、「皆に本当の幸せを」ってことを考えて、実践するってことは、当然、簡単には割り切れない大きな問題にも行き当たりますよね。人間であるかぎり、どんなに「こういう時はこう考える」と教えられても、平静な時は実践出来ていても最悪なことが起きた時に、果たして同じように考えられるのか、真価を問われるような状況に遭遇することもありますよね。

そこで、新しい質問を上げたいんですが・・・お坊さんの皆さんはすごく傷つく内容かもしれません。誹謗中傷的な内容では一切ありませんが、読んで辛くなる方はいるかもしれませんので、諸々の処理はお任せします。日を見て、そのうち上げると思います。

「お坊さんのことを知りたい」問答一覧

食前・食後の 言葉

ずいぶんと久しぶりに、こちらに伺いました。 あれからもう、二年半以上が経ったのかと、感慨深く。 現在は、実家からさほど離れてはいませんが、独り暮らしを始め、コンビニのアルバイトと、国からの障害年金・福祉ヘルパーさんたちに支えて頂きながら、自立生活・リハビリに努めています。 家族間の溝は、どうしても多少なりとて残ってはしまっていますが… 最近になって、父の世代の下に当たる 現在宗派を率いる世代 の方たちと、父経由ではない形でお話しをする機会を得ました。 今後の私のライフワークとなっていくだろう〝ヘルプマーク〟などについて興味を持って頂いて。 ちょっとずつ… 父とは違う形で、宗派 その他に関わっていくかもしれません。 本当は、〝つぶやき〟に書くべき徒然ではありますが。 字数制限に合いませんでしたので、こちらに書かせて頂きました。 【質問】 皆さまの宗派の、  ・食前の言葉  ・食後の言葉 など、宜しかったらお教えください。 各宗派・地域によって、瑣末に違ってくるだろう。 そして現在は、わりと廃れてきているのかな… という、この言葉を、少しでも残しておきたいと思いました。 ちなみにうちでは 「一粒一滴 皆 御恩。 不足を言ってはもったいない。 感謝で美味しく頂きましょう。 いただきます」 「今、尊い食を終わりて。 心豊かに、力 身に満つる。 この心身をもって、己が技に励みましょう。 ごちそうさまでした」 だったかな。 伝えていきたい言葉だと思います。

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跡継ぎの悩み。お坊さんとしての在り方とは

 実家が寺院です。  住職をしている父親の在り方に疑問を覚えるとともに、自分の将来について悩んでいます。  現在、人々のお寺への関心は少しずつ薄れているものと思います。そんな中、私の実家は今でも多くの檀家の方々に支えられ、お寺として成り立っています。しかし、父はその有り難さが分かっていないように思うのです。    具体的な収入(僧侶が頂くお金を収入と呼ぶのは語弊があるかもしれません)を私は知りませんが、高級車を何台も乗り継ぎ、沢山の娯楽品を購入し、暴飲暴食…。具体的な発言があったわけではありませんが、「僧侶も職業だ。稼いだ収入を好き勝手使ってもいいだろう」というような気持ちが根底にあるように思います。  お寺の管理として沢山の工事も行い、綺麗なお堂を建てる一方で、景観として素晴らしい大きな木を何本も切り倒すようなこともありました。  非常に恥ずかしく思うとともに、悲しく、また、檀家の皆様に申し訳なく思います。そんな父の「粗さ」に母親が涙する日も増えました。ただ、私もまた、そんな父の援助があって、仏教科ではない別県の大学へ進学しているため、やっていることは本質的に父と変わりないのだと思うと、苦しくなるばかりです。  父親のような僧侶にはなりたくないと思います。ただ、日々誰かの死と向き合う仕事ですし、お寺としての管理も父なりに苦しんで考えているものと思います。大きなストレスもあるでしょう。父がどんな気持ちで高級車を乗り回しているのか、分かる気もします。改めて、現代におけるお寺や僧侶というものの在り方の難しさを感じます。「苦しすぎて私にはとても継げない。」「自由に暮らしたい。」「普通の家庭に生まれたかった。」そんなことを連連と考えてしまいます。  悩みやすい性格で、父親のことも悩みの一端に過ぎません。ただ、お寺の道に進むのか否か選択を迫られる時期が近づいてきており、「お坊さん」として生きていらっしゃる方々の言葉を聞いてみたいと思い投稿しました。  お坊さんとしてお金とどう向き合っているか。お寺への関心薄れる現代において、お坊さん・お寺として、今後どう在るべきか。また、悩んだ末に実家を継いだ方がいらっしゃいましたら、その決断に至るまでのお話など、相談としては漠然としており申し訳ないですが、何かご意見頂けると有り難く思います。

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回答数回答 6

お坊様方の葛藤や苦悩、教えについて。

はじめまして。 先日、こちらで投稿をさせて頂き、道標をいただきました。 一進ニ退の日もありますが、先ずは己のために少しずつ仏教の教えや考えにふれたいと思うようになりました。 貴重なお時間をいただく事になりますが、質問をさせて頂きます。 申し訳ありません。 沢山の問答を拝読致しました。 今は自分が出来そうな事から、出来る日には、はじめています。 変えられない過去やわからない未来、辛い事が浮かんだ時には、(体の都合で座る事ができなくても)目を閉じて今の空間や呼吸に集中してみる 心を静めたい時等、南無阿弥陀仏と心の中で唱えてみる 自分の考えに偏ったり、様々な執着を手放すように心に留める など、容易くはない事柄もありますが、今の私にできそうな、まだまだ小さな一歩ですが、この事を知らなかった、しなかった時に比べると心のありようが違うと感じています。 お坊様方にも私達質問者と内容は違えど、苦悩や葛藤が過去におありだったり、今尚、もたれている事もおありかとは思いますが、過去に迎えられた苦しみや葛藤の中、どういう心の動きがおありでしたでしょうか?(葛藤の内容については複数の方々が見られるかもしれませんので、省いて頂いて大丈夫です。) また、その時やその後、スッと心に入ってこられたり、感銘を受けられた仏教の教えや考え方が(仏教の教え以外の親、友人、恩師等からの言葉でも)おありでしたら、お教え願えますでしょうか? お時間をさいて頂く事になり、申し訳ありませんが、可能でしたら宜しくお願い致します。

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お坊さんの息抜きについて

初めまして。 以前何かのきっかけでこちらのHPを知り、時々拝見させて頂いておりました。 本日はお坊さんの息抜きについて教えて頂きたいと思いまして、ご質問させて頂きました。 私は幼少期より、何故か周りから常に相談を受ける側でした。 それは老若男女職業問わずでして、ここ数年では特に、初対面にも関わらず重たいご相談を頂く機会がとても増えております。 勿論、報酬は頂いておりません。 ここからは私の勝手なイメージですが、基本的にご相談者は怒りや悲しみ等の「黒いモヤ」のようなものを大量に抱えていらっしゃいます。 その方が話し始めると、その方の体から黒いモヤが放出され、それを私が吸い取る事でその方の黒いモヤが少しずつ薄くなり、ある程度黒いモヤが薄くなると、その方は最初の頃よりスッキリした良い顔色になります。 反面、その黒いモヤを吸った私はとても重たくなり、時にはその方の怒りや憎しみ悲しみと同調してしまい、涙が溢れてきたり、頭痛やめまいに襲われる事もあります。 ここ数年は皆さんの悩みが重く、なかなか自分だけでは処理しきれず、私自身が他人から受け取る黒いモヤのせいで悩まされる事があります。 私は仏に仕える身ではございませんし、ごく普通の一般OLです。 見た目は怖そうだと言われますし、多少押しても倒れなさそうで強そうだと言われる程の体躯ではあります。 精神的にも強そうだと言われますが、それは不平不満を言ったところでなるようにしかならないと思っており、怒りや悲しみを持っても仕方がないので、それなら楽しい事を考えようと、自分のご機嫌を自分で取っているからそのように見えるのだと思います。 その為、自分が生み出した黒いモヤというものは割と簡単に放り投げる事ができるのですが、相手から相談として受け取った黒いモヤは時々しつこく、神社やお寺に行ってお参りをしたり、綺麗な景色を見ても取れない場合があります。 そのような取れない黒いモヤのカスが蓄積されていくと私自身も疲れていき、段々どうにもできないイライラが貯まっていきます。 そこでお伺いしたいのが、お坊さん方の息抜きについてです。 ご相談を受けられる事が多いと思いますが、その後の自分のメンテナンスはどのように行っていらっしゃるのでしょうか? 相手から黒いモヤを受け取っても、自分で処理できれば問題は解決できると思い、相談させて頂きました。

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