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育てたように

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「育てたように子は育つ」
そう思われますか?
同じ子どもでも、育てる親が違ったなら
今も生きて、違う人生を送れていたでしょうか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

不幸になれと育てましたか?

短い人生だったから不幸せ…
最期が自死だったから不幸せ…
それって違うと思います。

hasunohaで初めてお話を聴かせていただいた時、私は自死した修行仲間のことをお話しました。自死は衝動と書きましたね。私は今でもそう思っています。自死は衝動。人生10のうち9か8が楽しいことや平気なことでも、1か2で思いつめてしまえば人が死ぬには十分なのだろうと思っています。

それに自死するほど思い詰めるって、よほど本気で生きていないと出来ないことです。それだけ真っ直ぐ、真剣に受け止めていたのですから。ただ、あまりにも真っ直ぐ受け止め過ぎてしまっただけで。。。
正直、私の修行仲間には、死ぬくらいなら全部投げ出して逃げて、俺らを頼ってくれればよかったのにと思いますよ。でも彼は逃げられなかった。真っ直ぐ真っ直ぐ生き切ったから。

荘厳(しょうごん)という言葉があります。仏教では綺麗に飾りたてて供養すること。
お仏壇にお花を立てますね。それが荘厳。お供え物をするのに丁寧に並べたり、器に気を配ってみたり。それらも荘厳です。
子供に可愛い服を着せてやりたい。喜ばせてあげたい。それと同じ発想です。優しさの発露です。

私はね、お嬢様の人生も荘厳していただきたいと思うんです。
「私が親じゃなければ、もっと幸せだったかもしれない。」
もしそう考えてしまったら、お嬢様の人生は不幸せだったと決められてしまいます。でも、あなたおっしゃっていましたよね?「自分で命を絶つなんて本当に信じられないのです。」「模擬テストは今までで一番いい成績でした。娘が見たらさぞかし喜んだでしょう。 「どうよ、頑張ったやろ~」嬉しそうな顔で自慢したと思います。 」と。
Hasunohaで書いていらっしゃらない楽しい思い出もいっぱいあるでしょう。それらは自死なさっても虚構ではないんです。本当に生命を大切にしていたし、本当に嬉しかったことは嬉しかった。

そういうことを思い出してあげていただきたいのです。
お骨は必ず埋葬しないといけないとは言いません。でも、手元供養のお骨を哀しみのキッカケにしてしまうのなら、キッパリ埋葬したほうがいいです。手元供養するからには愛おしんであげて下さい。一緒に楽しい思い出を楽しんだり、みのり様の今の生活の話を聞かせてあげて下さい。

それが出来るだけの時をお嬢様と一緒に生きたでしょう?

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有り難し
おきもち

曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouTuber「仏教・お寺ch 大慈」。 【現代日本仏教最大の課題のひとつはコミュニケーション不足】をミッションに10年以上、インターネット上で情報発信をしています。 YouTubeでは仏教の教えや読経だけでなく、お寺の真相やお坊さんの生活が分かる動画を配信しています。(リンクは↓のURL)

仮の話は避けるべきかと思いますが。善道に向かうために。

あなたが今、お相手にされているものは「真実ではないもの」「真実ならざること」であるかもしれません。
そうではないでしょうか。
私は今、何を相手にしているのか。
この問いを何度も自分に投げかける必要があります。
ーーーーー
「父を亡くしました…」
鶴見の総持寺にある女性がずっと足しげく通っておられました。
お父さんが亡くなったそうで、苦しい思いが続いているとのことでした。
どうするべきだった。
ああするべきだった。
変えられないことをずっと思っていたようです。
そういう時、人は何を思っているものでしょうか。
今、この世にありながら、実物ならざることばかり相手にしてしまうものです。
心が今日一日、身体で触れた物事ではなく「私が考えたいこと」ばかりを相手にしてしまっているものです。
残念ながら、そういう方には私どものお話は聞く耳を持って頂けないものでしょう。
相手にされておられるものが、その人…。いいえ。辛口で申し上げますが、あなた自身だからです。お嬢さんの立場から申し上げれば「うちの母はあれ以来ずっと私に向き合ってくれません。ずっと自分の思いたいように思い、自分のやりたいようにしているだけです。」と言われるかもしれません。
本当に成仏すべきは「こちら」ではないでしょうか。
あなたがそうしたいこと。
あなたが自分でこうしたいことしかやっておられないのです。
誕生日のプレゼントに自分が上げたいものをあげてもさほど喜ばれないということを経験しました。相手が望むものを差し上げないと結局、その人にして差し上げているのではなく「自分がやりたいことをやっているだけ」なのです。
だから、本当の意味であなた自身もその方に「向き合えない」のです。
これは生きている人が相手であっても、亡き人が相手であっても同じなのです。
自分の事だけをやってしまう心理に陥ってしまうことで、自分の思ったことしか相手にしなくなってしまうものです。 
ここで私が申しあげたいことをよくよくご理解いただけるとあなたは前に勧めるはずです。
お辛いこととは思いますが、本当にむきあうべきは「そっち」ではないような気がいたします。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

大慈様、ご回答ありがとうございました。
本当にそうですね。
娘と過ごした17年間、ずっと楽しくて
幸せでした。
娘が私を悲しませたのは、あの日だけ。
17年間のうち、たった一日だけなんですよね。
楽しかった笑顔の娘を思っていたいのに
ちょっとしたこと、例えば昨日のように
「女の子は産んでないの?」などと聞かれた日は、どーんと落ち込んでしまうんです。
まだまだやなと、娘に笑われているでしょう。
お骨の事も答えていただき、ありがとうございます。初めて相談したときのご回答は
今でも時々読み返しています。

丹下覚元様、ご回答ありがとうございました。
娘が私に望んでいる事、本当はわかっています。ただ、あきらめの悪い私は以前と変わらない物を望もうとしているのでしょう。
「これはないよ。ひどいよ。」と
愚痴る母をみて、娘がどんな気持ちでいるのか。そんなこと、考えなくてもわかるのに。
心優しい娘を困らせて、不甲斐ない母親だなあとあきれます。
自分に向き合うとは、どういう事かまだわからないですが、相手の気持ちを大切にできるようになれればと思います。

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