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六波羅蜜の1つ、「忍辱」とは?

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 いつもお世話になっております。
 忍辱行とはどんなお行なのでしょうか?辞書や仏典によると、
「つらいことがあっても耐え忍ぶこと」とあります。

 これは危険な目にあっても、たとえばいわゆるイレギュラー
な事態、突然の誹謗中傷やその他の犯罪に繋がりうる行為を
受けた場合であろうとその行為を笑って受け入れろ、
ということでしょうか?

 それとも、その行為を受けることによって高ぶってしまう
自分の感情を落ち着け、落ち着いて距離を取りなさい。
という教えでしょうか?

 後者が当てはまるとすれば、
 例のお嬢様の件。最近は私が時間をずらし、彼女はしばらく
堂内にいるので接触しないよう待機、
 立ち去ったら私は私のお参りに入ります。

 ほかには、レストランの入れ込みで不快な会話をしている
一団が隣になってしまい、我慢してそれを聞きづけるのではなく
席を変えていただき、食べ終わって下げてくれたら店員さんに
「お手数をおかけしてしまってすみません。
おいしくいただきました。ごちそうさまです(^^)」
と言ってお支払いをしてお店を出た…とか…

 いまだにこの点が理解できておりません。お知恵をお貸し
いただきたく存じます。よろしくお願いいたします。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

忍とは「にん」であっても「人」の無き心

カラッポになれとか我慢しなさいとかは「人」の強制的なルールが生まれてしまいます。そんなものは無茶でしょう。
仏教は「主義」ではありませんから、人が人の繕い・はからいでやるものではありません。
そうではなく「私を立てないこと」が忍辱波羅蜜なのです。
天然の忍耐・天然の忍辱なのです。
天然の忍耐とは、もともとの心の静寂さをそのままでいること。
私の今おりますトコロは埼玉県の狭山市です。自衛隊の基地がありますので飛行機がしょっちゅう飛んでいます。
遠くから来た人はびっくりします。
ところが我々は「そういえばさっき飛行機の音がしたっけな」くらいなのです。
「ガード下」と言われるところに住んでいる方々は電車の音が当たり前。生活の一部と化しています。さらにいれば、今あなたはこの文章を読んでいた時に、過去にあったそのような忍辱すべきことを忘じ去っていたはずです。この忘じ去っている時の様子が忍辱がなされている様子なのです。
人間の本来性による人間の本来の静寂美が全うされている様子。
今も、新たに私の上空には飛行機が飛んでいます。
私にはさほど拾い上げが無いので忍辱され続けています。
忍辱は「私が今からやろう」というスタンスの行ではありません。
もともと備わっている天然無為の静寂さをそのままでいることです。
レストランで「ああ、隣の客が気になるなぁ…」というのは、いったん気にし始めましたら脳はその人たちを土俵に取り込んでしまうものです。
ここであなたの左右の後ろ側のものに目を向けてみてください。
存在自体が忘れ去れていたものがあるはずです。
それが忍辱されていたモノの様子です。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

忍辱とは

何があっても志を落とさないことを言います。

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僕はウイキペディアでは以下のように紹介されています。 「日本、アメリカ、カナダ、ヨーロッパ、オセアニア、中東、タイ、バングラデシュで活動する指圧師、作家、音楽家。タオサンガ・インターナショナル代表。京都浄土宗和田寺の僧侶。タオ療法、タオ指圧、気心道の創始者。著書は数カ国語に翻訳され世界各地で出版されている。」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A0%E8%97%A4%E5%96%A8%E5%8F%8A が実は、元家出少年です。ティーンエイジャーの頃は、徹底的に自己破壊的な行動を繰り返し、高校も2つ中退しています。現在は、浄土宗和田寺の住職で、一般の人が気軽に修行できる場として、京都と東京に道場を作りました。(道場はその他、世界各地にもあります) なので、修行したい方、人のために涙する方、楽しいことが好きな方はぜひ来て来てください。あなたを歓迎します。 ※毎週、法話を配信しています。書き起こされた法話は、下記でご覧いただくことができます。 http://taosangha.com

シャーンティデーヴァ大師『入菩薩行論』

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

どういったことに耐え忍ぶべきであるのかにつきましては、できれば六波羅蜜の詳しい内容全体を把捉して、改めて具体的なことの理解に努めていくことが大切なこととなって参ります。

そこでお薦め致したいのが、シャーンティデーヴァ(寂天)大師の『入菩薩行論』でございます。

忍辱波羅蜜も含めて、六波羅蜜全体が詳しくに、しかも分かりやすい詩文で構成されているため、日本語訳も理解しやすいものとなっております。

「精読・シャーンティデーヴァ 入菩薩行論」(ポタラ・カレッジ チベット仏教叢書4・チベット仏教普及協会)

「チベット仏教・菩薩行を生きる―精読・シャーンティデーヴァ『入菩薩行論』」(大法輪閣)

がお薦めとなります。

8章までであれば、こちらのダウンロードページにてまだ無料にて拝読することができます。

忍辱波羅蜜の章もございます。

ダライ・ラマ法王日本代表部事務所・各種経本PDFダウンロード
http://www.tibethouse.jp/about/buddhism/text/

忍辱波羅蜜の章
http://www.tibethouse.jp/about/buddhism/text/pdfs/Bodhisattvas_way_JP_chapter6_201612.pdf

川口英俊 合掌

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最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断しています。 https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k

質問者からのお礼

【柳原貫道 先生】
 ご回答ありがとうございます。疑問が解決しました!本来の目的と、目指すべき目標を
最優先にするようにします。

【丹下覚元 先生】
ご回答ありがとうございます。私は人よりも頭の回転が遅いせいか、文章を読むにも幾度も
考えて読みます。いま、「人間は考える葦である」という言葉を思い出しました。
 人間本来の静寂というのは、いわゆる「理性」のことでしょうか?
 「私を立てない」というのは自分の思考の中のものばかり優先するのではなく、積極的に
いろいろなものを見て、いろいろなことを学び取れ、ということですかね…?
 倫理学も少し勉強してみます。

【遠藤喨及 先生】
 ご回答ありがとうございます。私はいま「これ」と言えるものがないので、まずはそこから
かもしれませんね…

【川口 英俊 先生】
 ご回答ありがとうございます。途中までしか読んでいないのですが、
自分の怒りに勝つこともお行の1つという捉え方でいいんでしょうか?
 これからじっくり読んで勉強します!

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