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生前に払った葬儀費用代金について。

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祖母 北海道生まれ・地元で死亡

①父→子 相談者・桜雪
父は北海道生まれで現在関東在住。
病気の為、外出は出来ません。
相談者・桜雪も関東に在住していましたが、結婚を期に北海道へ。

②叔母①・北海道・地元で死亡
③叔父・北海道・地元外で死亡
④叔母②・軽度精神障害者 北海道・地元で施設暮らし

祖母が生前叔母②の為に、お世話になっているお寺に葬儀費用として叔母②の名義で100万円を支払っておりました。

所が、叔母の面倒をみていてくれた叔父が亡くなり
叔母の面倒は相談者に。

相談者の家系は相談者以外に子供がいず、お墓の管理も遠距離で出来ない為に、ゆくゆくは墓じまい予定です。

叔母のお葬式も施設でやる為に、葬儀費用はかかりません。そこで返金を要求したいのですが、どうやら住職さんは嫌なご様子です。

一度も住職さんとはお会いした事なく、失礼になったら申し訳ないので、とりあえず返金内容の件はは伏せて、お会いしてご相談したい事があると電話で伝えた所、なぜか逆ギレされ声色恐ろしい口調でマシンガントークのようなお説教をされてしまいました。

弁護士さんにも相談し、住職さんは私共に返金義務があるとの見解を頂いておりますし、叔母名義の領収書も現存していますから、トラブルなく返金して頂きたいのですが… 難しいのでしょうか?

お答え辛い内容で…大変失礼な質問だと承知の上なのですが、ご教示よろしくお願い致します。


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

 詳しい事情はわかりませんが、施設でお葬式をするとしても、必要ないのは「会場費」の事だと思います。お坊さまに納めるものは必要となるはずです。お布施を納めたお坊さまにお葬式をしていただくのが穏当かと思います。

 なお、お寺さんに納めるものは「お布施」であり、お経の対価ではありません。お祖母さまがお寺さんにお布施として納めたものです。「返金」という考えかたは、お布施の精神とそぐわないものです。

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・曹洞宗/静岡県/50代 平成27年鳳林寺住職。平成28年hasunoha回答僧登録。 好きな言葉は「和顔愛語」。和やかな顔と思いやりの言葉という意味です。曹洞宗開祖道元禅師は、愛語には世界を一変させる力があると仰っています。回答には厳しい言葉を入れることもありますが、相手を思いやる気持ちがあってこその言葉と捉え、受け止めていただきたいです。 ※質問の答えについて、話の大筋は変えませんが、投稿してから誤字脱字を直したり、内容をよりわかりやすくするため、若干加筆修正することがあります。ご了承ください。 ※「お礼」は必ず拝読していますが、それに対して回答の追記は原則しないことにしています。ご了承ください。 ・回答する件数は減っていますが、ほぼ全ての質問とつぶやきに目を通しています。
話すのが苦手なので、原則不可とさせていただいています。どうしても!という場合は運営さんに問い合わせてみてね。

葬儀費用(料金)なのか布施(寄付)なのか

お寺に納めるお金は、「お布施」が多いでしょう。
お布施は、見返りを求めない寄付なのです。
お布施として納めた場合、サービスと引き換えに支払う代金ではないのです。

一度寄付したものを後から返してくれと言われたら、お寺としては運営上も困る場合があると思います。
また、葬儀を頼んだのにやっぱりやめますというのも、相談者側の勝手な都合と思われる可能性があります。
お願いしたのに「やっぱりやめます。」
寄付したのに「やっぱり返してください。」
もしも、祖母がコンビニのレジの募金箱に入れた寄付を、数日後に孫が「返してくれ」と来たら。
事情は理解できますが、かなり失礼な話だということはご承知のうえで、
お寺さんには、ダメ元の気持ちで返金をお願いしましょう。
そもそも、そのお金はあなたのものではなく祖母のものでしょう。
祖母はそのお寺にお願いしたかったのでは?

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おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

先ずは住職に祖母とどのような約束をしていたのかを詳しく確認しましょう。
その結果、そのお金が全額布施であるなら、返金の要求は普通ではないと思います。
しかし、もし戒名の為の布施であり、戒名を授からなかったのなら、返金は可能でしょう。
また、そのお金が布施と葬儀費用(棺代、葬儀会場設営費、火葬費など)であるなら、その金額から葬儀費用を差し引いた分は返金可能かと思います。
あるいは、布施と戒名の為の布施であり、戒名を授からなかったのなら、戒名の分は返金可能と思います。
切れやすい住職なら、その弁護士さんに間に入ってもらいましょうね。

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私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答していますが、無知未熟ゆえに質問を読ませていただくことしかできないことも多々ありますがお許しください。 回答は私個人の意見や解釈もあり、場合によっては浄土宗の教義とは少し異なることもあるということをご了承ください。 また、寺の紹介ページに電話相談についても紹介していますのでどなたでも気兼ねなくご利用ください。 ハスノハのお坊さんがもっと増えますように。 合掌 南無阿弥陀仏

故人の遺志を尊重されるべきでしょう

私はどちらにも与しませんので中立の立場で申し上げます。
まず、あなたの金銭感覚「支払い・PAY」と亡くなられたお婆さんの「お納め」「宗教心護持のための納め」とでは感覚が異なると思います。
こういっては失礼ですが、故人様のお金は故人様のお金ですから、遺族の方が今からどうこういうのは慎まれるべきかと思います。
あなたのお金ではないのですから。
お婆様はお婆様のお金をご自分の意思でお寺にお布施として納められたわけです。
お婆様の持っておられた「仏教心」と現代人に多く見られる利便性・便利至上主義・都合主義とではまるで別ものであろうと思います。
主役は故人様であってあなたではないと思います。
お金よりも大事な尊厳というものがあると思います。
現代は世間のニュースや宗教心を貶める派遣サービス供養ビジネス等の横行でお寺業界そのものが誤解されていますが、お布施とはそもそも「戒名料・葬儀料」ではありません。名義もお寺さんによって異なりますが、お寺というものは仏教精神を広めたり、人間のわがまま・エゴを薄めるべく活動をしているものです。自分中目線で生きていくと人間どうしてもぶつかり合う。
感覚・感性の違いとは言え、お婆さんが生前、お寺に宗教活動の助けとして活用していただくためにおばあさんがおさめたお金を孫が返せというのは…驚きです。
お婆さんのお声を聞けるようになってほしいと思います。
弁護士さんを通して取り返したとしても、それは人としてどうなのかなぁと思ってしまいます。
お婆さんが百万円をお寺に納めてまでやろうとされたことは、あなたから「自分のだ。自分のだ。うちのものだ。」という、その心をこそ取り上げてくださっているとお考えになられてはいかがでしょうか。
お寺に布施をする、寄付をするということですね、長年先祖代々祖霊を見守ってきてくださったお寺に対する報恩・法礼でもあり、世間への宗教心を広めるためでもあるのです。葬儀料や戒名料ではありません。支払い・PAYという現代人の金銭金銭感覚と、人間としてお金よりも大事なものを大事にしようという精神を護持する為に活動費用として納めたお布施を返金しようとする感覚は亡くなったお婆さんは生きておられたら嘆かれると思います。
あなたはあなたの代のご都合でそのお寺にはお世話にならないとしてもお婆さんの遺志は、遺意は尊厳として尊重するべきであろうと思います。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

皆さんご回答ありがとうございました。

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