信心がない
私の祖父が仏教のある宗派を信仰していて、私は小さい頃からたまにお寺に行っています。
しかし、私は昔から神仏や霊など目に見えないものを信じることができず(存在の否定はしませんが)、宗教も文化や芸術として素晴らしいとは思いますがそれ以上のものとしてみることができません。
お寺に通う意味が全く見出せず、正直ただ座ってお経を読むことが苦痛でしかありません。お寺通いをやめたいです。
無理して信徒を続ける必要は無いと思うのですが家族、いつも優しくしてくださる住職をはじめお寺の知り合いとどのように折り合いをつければいいのでしょうか?
仏教を信じる方々を導くお坊さん方にこのような質問は不躾かもしれませんが回答よろしくお願いします。
ちなみに大学生です
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
大事な質問です
とても正直なご質問ありがとうございます。その感覚を忘れずずっと持っていてくださいね。
まず、信教の自由は万人に保障されていますから無理に信仰する必要がないのはもちろんです。おじい様が信仰されていたからと言ってあなたも信仰する必要はありません。
でもあなたがこうして質問をくださったということは信仰云々の前にまずきちんと仏教というものを知りたいというお気持ちからだと思います。
私の説明で伝わるか分かりませんが、仏教というのはあなたのおっしゃる意味での「神仏や霊など目に見えないものを信じる」というものではありません。
しかし、目に見えないものの存在や作用が全て否定される教えでもありません。
例えば、リンゴの木からリンゴが落ちるのをみてニュートンが万有引力の法則を発見したように、そこには目には見えなくとも法則が存在しています。
あるいは風は目に見えなくとも、風に揺れる旗を見て私たちは風というものの作用を感じることができます。
そのように、目には見えなくとも確かに存在する法則・道理に気づいた方がお釈迦様です。仏教とはお釈迦様が作った創作概念ではなく、お釈迦様がその目に見えない真実(法則・道理)に目覚め、それを言葉にして説いてくださった教えです。
例えば、
私は私の力だけで生きているのではない。あらゆるものはそれ自体が独立して存在しているのではなくお互いに影響し合い存在している。(諸法無我)
よって、どんなものも変わらないものは何一つない。人が必ず死ぬように。(諸行無常)
つまり、あらゆるものごとは私の意思でコントロールできるものではない。この世とは私の思い通りにならないものである。(一切皆苦)
この真理に目覚めるのならば、思い通りにならない世の中においても、私は実は全てとつながっているという大いなるいのちの中にあることを知るのです。(涅槃寂静)
しかし、それでもなお私がそのいのちを私の思いで分断して生きているという私の身の事実に頷かされる時、私は真実の中にありながら真実に背いて生きる者として、ならばどう生きるかという道を問い、歩み始めるのです(仏道の実践-各宗派の教え)
こんな風に表現してみました。
いわゆる仏様とはこうした教えの象徴です。仏像のような仏様がどこかにいるわけではありません。
是非今の気持ちを大事に仏教の事をもう少し知ってみてください。
いやいや、仏教とは、見えないものをどうのこうのじゃなくて、いかにして幸せになるかの考え方を体得する事です。
お寺ではお経を読むだけでしょうか?ご住職から仏教のお話はいただいていますか?もしなければそれはあなたにとっては意味がない事なので行く必要はないと思います。
悩み苦しみの原因を制御したり消したりする教え
仏教は、悩み苦しみの原因(煩悩)を制御したり消したりして、人生の悩み苦しみを減らす教えです。
人生を安らかに生きるコツ・テクニックが仏教です。
仏様は、そのコツを発見した人生の師匠です。
お経は、仏様の教えが書かれた書物です。もとはインド発祥ですが、日本では、漢文(昔の中国語)に翻訳されたテキストを読んでいるのです。
むやみやたらに信じるのでもなく、
頭ごなしに拒否するのでもなく、
教えの中身を確かめましょう。
色んな宗派がありますが、きっとあなたにぴったりくる宗派もあると思いますよ。
教えが合わない場合は、住職さんは「親切な知人」として接すればよいと思います。
質問者からのお礼
仏教というものを自分が少し勘違いしていたのかなと思いました。無理して信仰する必要はないという事は当たり前ですが、自分が周りの人に縛られていて見落としていたような気がします。今のところどの宗教も信じるつもりはないですが、仏教をはじめ宗教が人生を豊かにするものならいつかは信仰してみようかなという気持ちになりました。相談に乗っていただきありがとうございました。