生き物の殺生について
こんにちは。私は以前小さなパン屋さんで焼成を担当しており、毎日パンを焼く仕事をしていました。全てのパンにイーストを使用しています。毎日働いているうちに仏教への関心が強くなり、私は大量のパン酵母を焼き殺しているんだと考えるようになりました。酵母がいきいきとするように保湿をして 暖かくして エサとなる糖分を与えて 十分に分裂したあと熱い窯で一気に焼き殺してしまうことに強い罪悪感を感じるようになりました。パンを買ってお客様に喜んでいただける職業はとても素敵だと思います。
ですが、それ以上に自分が担当している焼く仕事は罪の重いものだと感じるようになり、心の中で葛藤していました。これが原因ではないのですが 転職し 今は全く生き物を殺さない仕事に就いています。この心の葛藤を抱えたままですが今も生活しています。
最近では、リアルファーに対する嫌悪感が出てきてしまいました。動物の毛皮や皮革を剥ぎ取ってしまうなんて酷いと思いました。理想では動物実験をしていない薬や合皮を使って生活したいと考えています。
避けていても自分の手の及ばないどこかで犠牲になる生き物が出てしまうのは仕方ないと考えています。自分の出来る範囲で皮革製品は使わないようにしていますが、最近プレゼントに牛革のパスケースを頂きました。避けていたのですが使わざるを得ません。頂いたことには感謝しています。牛革は肉の副産物だから 気にすることはない。という意見を聞いたことがありますが、矛盾しているのでは?と思います。無駄なく使うことは理にかなっていますが お坊さんのご意見はどうでしょうか…?
それと また似たような感じになってしまいますが、カビの殺菌スプレーを使うことにも少し抵抗があります。水回りを不衛生にしていては そのうち健康に影響が出てきてしまいますし ある程度は使用しないといけません。毎日のことなので 毎日悩んでしまいます。お坊さんでもこのような 殺菌スプレーを使うことはあるのでしょうか?また、使うことに対する考えをお聞かせいただけたらと思います。ながい文書になってしまい、すみませんでした。ご回答よろしくお願い申し上げます。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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両極端に走らない
日本の殺生感って明らかに行き過ぎなんです。
戒律主義の南方の仏教では出家者は蚊取り線香も焚いてはいけません。しかし殺生が必要な場合は非出家のお檀家さんが代わりにやります。そこを徹底します。そのために出家・在家の区別があると言っても過言ではないでしょう。
殺生の必然性は認められているんです。智慧を求める人は殺生せず、その上で得られた智慧を支援者にシェアするシステムなだけで。
あるいは蜂蜜。蜂蜜って、日本仏教では「蜂の子の食事を盗むことであり、間接的な殺生になるからN.G.」なのですが、インドの辺りでは「アムリタという不老長寿の薬」です。
肉食にしても南方では「托鉢で得た肉は残さず食べなさい。でも出家者のために絞めるのはダメ。不特定多数のために絞められたお店の肉はオッケー」ですが、北方では「肉食は汚らわしいから全面禁止!肉食する奴は臭せぇんだよ!」です。
案外に南方よりも北方の方が考え過ぎていて厳しいんですね。
そもそも仏教とは『中道』の生き方です。中道とは両極端に走らないこと。パン焼いたら殺生!や殺菌スプレーは殺生!というのは明確に極端です。なぜか?『身動きが取れなくなる考え方だから』。
極端に殺生を否定するとどうなるか?食物連鎖のような『生命そのものを否定』することになります。それは偽善です。だからお釈迦さまは死なせるという結果ではなく、『殺意・害意を禁止』なさった。それが不殺生戒です。
カビキラーしてシュワシュワしているのを見ながら、「あぁ〜、みんな死んでいってるんだなぁ、楽しいなぁ。もっともーーーっと殺したい!!!」と感じるなら、少しは悩んだほうがいいでしょう。
しかし居住空間を清潔に保つことは食事と同じだけ生きるという行為です。生きるベクトルとして、やるべきようにやるべきですし、清潔になって嬉しいのは進化の結果として自然な感覚でしょう。
衣服にしてもそうですよ。衣食住は同等です。
もっともお袈裟や法衣に皮革は用いません。出家の服ですから。しかし社会生活のための財布などで皮革製品をプレゼントされたら私は普通に使います。
むしろ皮革製品や毛皮を見て常に殺生を連想するようなら、それは生産者や使用者への嫌悪に繋がりかねず、害意の種子と言えるかもしれません。逆に殺生に取り憑かれているでしょう。
考え過ぎない。ついつい考え過ぎてしまう心を調える。それも仏道です
不殺生の目的と範囲
仏教は、自分と他者(人間以外も含む)の悩み苦しみを減らす教えです。
不殺生もそれが目的です。
自分自身の怒りや憎しみや怠けの煩悩に気付くために、不殺生戒は役にたちます。
自分の煩悩(悩み苦しみの根本原因)を弱めるための、生活習慣の修行の一つが不殺生戒です。
一方で、他者(他の生きもの)の悩み苦しみを減らすという観点では、たとえば、「死にたくない」と思っている人を殺す場合、殺される人は当然嫌な思いをしますから、殺さない方が良いのです。
ただ、仏教では、植物や細菌までは不殺生戒の対象としません。
植物や菌に「死にたくない」という感情があるかどうかはわかりませんが。
例えば、自分自身の皮膚を爪でひっかいたりするだけでも、皮膚の細胞を傷つけている可能があります。
その場合、皮膚の細胞を一匹の生きものと考えるなら、殺生と思うこともできます。
しかし、皮膚の細胞には「助けてくれ!死にたくないよ!」などの具体的な感情はないでしょう。
そのような細胞は、殺されても、悩み苦しんではいないかも知れません。
結論としては、植物や細菌は不殺生戒の対象外です。
ただし、欲・怒り・怠け・プライドなどの煩悩を弱めるために役立つなら、個人的に頑張るのはかまいません。
逆に、細菌を殺したくないという執着が、怒り(悲しみや後悔を含む)やプライドの煩悩を刺激し、人生のストレスになるなら、あまりこだわらないことをお勧めします。
やがては、この輪廻の世界を超えていけるように
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
確かに感情が一つの目安となるという意味で「有情」という言葉がございます。
ですので、不殺生戒の対象となる生き物を仏教では「有情」と表現致しますので、願誉浄史様のおっしゃられる通りとなります。
まあ、しかし、私たちが生きていくためには、有情であっても直接、間接問わず、知ってか知らずかに拘わらずに殺生は避けられないところがあるのは仕方のないことであります。
拙生だってそうです。カビもカビキラーでやっつけていますし、蚊取り線香も焚けば、ゴキブリほいほいも置いていますし、蜂もスプレーで退治してしまうこともあります・・知らずに虫を踏んで殺してしまっていることも・・
また、肉も魚も食べております・・
できればもちろん、完全に不殺生にて生きていければ良いのですが、そうはいかない現実がございます・・
そんなどうしようもない苦しみさえも抱えてしまう世界に生じてしまっているのを、できれば仏道を歩むことによって、少しずつ避けられるように、そしてやがては、この輪廻の世界を超えていけるように調えて参りたいところとなります。
川口英俊 合掌
おっしゃるとおりです
拝読させて頂きました。
あなたがそのように生き物に対する慈悲のお心を持つことは素晴らしい事かと思います。
できる限り生き物の生命を大切にしたいですよね。ですからやむを得ず生き物の生命を頂くことはやはり必要最小限にすること、そして頂く生命については感謝の念を持つことは必要かと思います。
私たちが生きていく為にはどうしても生き物の生命を頂かなくてはなりません。
野菜や果物や肉や魚を頂かなくてはなりませんし、皮革製品は耐久性があり私たちの生活に利用されているものです。
石油も石炭もはるか昔の生命の堆積物からできていますからね。
殺虫剤についてはできるだけ使わないように心がけています。虫に刺されないようにという場合等についてはやっぱり使います。カビキラーも使ってはいます。生活していく為に使ってはいますね。
ただできるだけ最小限にしたいと思っています。
ですから様々なものに感謝しながら己の生活を正して心を清めて生きていきたいですね。
足るを知る者は富む、ですね。心豊かであるということは感謝し生きることかと思います。
あなたがこれから様々なものに感謝の気持ちを持ち心から健やかに生きていかれます様にと切にお祈り申し上げます。
質問者からのお礼
お返事が遅くなってしまい、申し訳ないです。回答してくださった、大慈さん、願誉浄史さん、川口英俊さん、Kousyo Kuuyo Azumaさん、ありがとうございました。
皆さまのご回答を拝読させていただき、私の心が晴れていきました。長い間、悩み続けていたので とても助かりました。両極端な考えを持ってしまうことが時々あるため 『中道』の生き方を実践して参りたいと思います。回答をお読みになった他の方も「有難し」ボタンを押してくださっているので、同じ悩み抱えていらっしゃる方も多いのだと感じました。皆さまの苦悩が少しでも減ることを願っております。ありがとうございました。