Amazonのお坊さん便について
最近Amazonでお坊さんを手配するお坊さん便が始まったそうですが、お坊さんに知り合いがいない人やお寺が身近にない人達にとってはお坊さん便は便利なサービスかも知れません。
ですが、「仏教をビジネスと考えてるからけしからん!」といったお坊さん便に対する反対意見もあることは確かです。
ちなみに私はお寺に縁のない若い世代の人達の為にもお坊さん便はあってもいいのではないかと思います。
そこでハスノハのお坊様方に質問なのですが、Amazonのお坊さん便に関して賛成ですか?それとも反対ですか?
詳しい意見の方よろしくお願いいたします。
色々と悩んでいる煩悩の塊ですがどうかよろしくお願いします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
そこでの出遇いを法縁に出来るかどうかが、僧侶に問われます。
そのようなビジネスが成り立つのは、そういう需要があるから。
そこを利用する方々はきっと、それまでに出会った僧侶に反旗を翻したのか、僧侶に全く接点が無いかのどちらかでしょう。
そういう方々は、今までちゃんとした僧侶に出遇っていただく機会は無かったのだからこそ、ちゃんとした僧侶に出遇っていただかなくてはいけません。
そこに登録する僧侶が全てちゃんとしているとは思いません。しかしamazonがちゃんとした僧侶に遇う御縁の窓口になる可能性があるのだから、無下に否定はできません。少なくとも、葬儀・法事をしない場合よりはマシだと思います。
お寺の住職と檀信徒さんの絆がしっかりしていれば、amazonで法事を依頼することは無いでしょう。檀信徒さんがamazonに流れると心配する僧侶は、実は情けないのではないでしょうか。
Amazonの賛否が問われる真意
Amazonの僧侶にこう尋ねると良いでしょう。
「あなたがお経を読んだことで成仏したのでしょうか」
「ポクポクではなく、あなたの生のお経を聞かせてください」
お経さえ読んでいればよいという時代ではありません。
本当に成仏させる力のある人にお経を読んでもらい、法話をしてもらう事です。
お経をあげればそれでいと思ってしまていませんか。
仏教とはそういうことではないのです。
生きているあなた方が生老病死苦から救われる仏の智慧を共に分かち合い養い合う場であるからこその「供養(ともにやしないあう)」の場なのです。
ある葬式で引導が終わった後「オイ坊主。今うちの親父を何処へ送った!言ってみろ!」と施主が質問しました。坊さんは何も答えられなかったそうです。
これを是非、やってみてください。
ただやってきてお経ポクポクで3万5千エン?むしろ高いでしょう?その僧侶の品格が問われるのです。
僧侶の品格とはお経をあげたぐらいで成仏するものではないと知っている人間です。
思い込みではいけません。成仏したことにする。成仏したこととみなすようであってはならない。
だからインチキ坊主が横行する。
今や通信教育で一ヶ月そこらで簡単に誰でも坊さんになれます。
そんな坊さんが来てお経をあげて何が供養でしょうか?
あなたが読むことと変わりないでしょう。
そういう供養やお経では、ダメなのです。
誰も成仏しない。だれも救われないからです。せいぜいその財布の中身がグッジョブするくらいです。現場はバッド成仏。未成仏。
だから、頼む側こそがお経を読んでもらったくらいで成仏したと思い込んでいる錯覚をこそ正さなければいけない。何を以って成仏と為すのか。
お経をあげてもあなた達の生老病死の苦しみが解除されなければオウムの物まねに支払っただけ。
コスプレ僧侶に「支払う」のは布施ではない。
真のお坊さんとは「応供」(おうぐ)という。供養を受けるの相応しい人間です。
何故供養されるのか。生老病死の苦しみを取り除いてくれるからです。
今のポクポク僧侶はそれをしているだろうか。
お坊さん便というが、本当にそれはお坊さんだろうか。
皆さんが、僧侶に対する質をもっとちゃんとしたものを求めないと、布施にならずコスプレ僧への支払いになるのです。それに加担するのは、どちらも仏教を破壊する行為だと思います。
賛成、反対のどちらでもない
くねくね様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
色々と物議を醸しているAmazonの「お坊さん便」、拙生は、賛成、反対のどちらでもないのですが、仏教・仏法の本来的な目的・実践は、「衆生済度の聖業」(一切の衆生、輪廻に迷い苦しむものたちを救うための聖なる行い)であり、色々な方便は、方便としても、仏教・仏法の本来的な目的・実践に適うものとなっているのかどうかが、最終的に重要になるのではないかと存じております。
Amazonの「お坊さん便」においても、その問われるべき問題は、そこに単なる気休めではない、真なる救いや安心がありうるのかどうか、ということになるのではないかと存じます。
仏教とビジネス、仏教と営利、仏教と経営・・色々と相いれないと思われることももちろんあるでしょうが、その時代や環境の変化に応じて、寛容・柔軟になるべきことと、絶対に妥協・譲歩してはいけないことと、そのバランスを取りながらにも、「衆生済度の聖業」という本来的な目的・実践をしっかりと推し進めていく役割を担っていかなければならないのが、僧侶、寺院のあり方として最も大切になるのではないかと考えております。
確かなる「衆生済度の聖業」の実践へと向けて、犀の角の如くに中道を歩むことができていけますように、この浅学菲才の未熟者におきましては、しっかりと省察しつつ、これからも仏法の修習に努めて参りたいと存じております。
川口英俊 合掌