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Amazonのお坊さん便について

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最近Amazonでお坊さんを手配するお坊さん便が始まったそうですが、お坊さんに知り合いがいない人やお寺が身近にない人達にとってはお坊さん便は便利なサービスかも知れません。
ですが、「仏教をビジネスと考えてるからけしからん!」といったお坊さん便に対する反対意見もあることは確かです。

ちなみに私はお寺に縁のない若い世代の人達の為にもお坊さん便はあってもいいのではないかと思います。

そこでハスノハのお坊様方に質問なのですが、Amazonのお坊さん便に関して賛成ですか?それとも反対ですか?
詳しい意見の方よろしくお願いいたします。


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

そこでの出遇いを法縁に出来るかどうかが、僧侶に問われます。

そのようなビジネスが成り立つのは、そういう需要があるから。

そこを利用する方々はきっと、それまでに出会った僧侶に反旗を翻したのか、僧侶に全く接点が無いかのどちらかでしょう。

そういう方々は、今までちゃんとした僧侶に出遇っていただく機会は無かったのだからこそ、ちゃんとした僧侶に出遇っていただかなくてはいけません。

そこに登録する僧侶が全てちゃんとしているとは思いません。しかしamazonがちゃんとした僧侶に遇う御縁の窓口になる可能性があるのだから、無下に否定はできません。少なくとも、葬儀・法事をしない場合よりはマシだと思います。

お寺の住職と檀信徒さんの絆がしっかりしていれば、amazonで法事を依頼することは無いでしょう。檀信徒さんがamazonに流れると心配する僧侶は、実は情けないのではないでしょうか。

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おきもち

 浄土真宗(大谷派)/広島県広島市/17世住職。  1967年京都市生まれ。山形大学理学部卒業後、証券会社で勤務。30歳で脱サラし、親戚筋の超覚寺に入寺、45歳で住職継職。  遺族の分かち合いやお悩み相談などグリーフサポート活動を続け、お寺の掲示板による法語伝道にも尽力している。カープ坊主の会会員。
こちらに法事が入っていなければ、ご希望の日時に相談させていただきます。 想いを吐き出しても、あなたの環境は変わりませんが、あなたの気持ちは変わっていきます。 どうぞ安心してお話しください。

Amazonの賛否が問われる真意

Amazonの僧侶にこう尋ねると良いでしょう。
「あなたがお経を読んだことで成仏したのでしょうか」
「ポクポクではなく、あなたの生のお経を聞かせてください」
お経さえ読んでいればよいという時代ではありません。
本当に成仏させる力のある人にお経を読んでもらい、法話をしてもらう事です。
お経をあげればそれでいと思ってしまていませんか。
仏教とはそういうことではないのです。
生きているあなた方が生老病死苦から救われる仏の智慧を共に分かち合い養い合う場であるからこその「供養(ともにやしないあう)」の場なのです。
ある葬式で引導が終わった後「オイ坊主。今うちの親父を何処へ送った!言ってみろ!」と施主が質問しました。坊さんは何も答えられなかったそうです。
これを是非、やってみてください。
ただやってきてお経ポクポクで3万5千エン?むしろ高いでしょう?その僧侶の品格が問われるのです。
僧侶の品格とはお経をあげたぐらいで成仏するものではないと知っている人間です。
思い込みではいけません。成仏したことにする。成仏したこととみなすようであってはならない。
だからインチキ坊主が横行する。
今や通信教育で一ヶ月そこらで簡単に誰でも坊さんになれます。
そんな坊さんが来てお経をあげて何が供養でしょうか?
あなたが読むことと変わりないでしょう。
そういう供養やお経では、ダメなのです。
誰も成仏しない。だれも救われないからです。せいぜいその財布の中身がグッジョブするくらいです。現場はバッド成仏。未成仏。
だから、頼む側こそがお経を読んでもらったくらいで成仏したと思い込んでいる錯覚をこそ正さなければいけない。何を以って成仏と為すのか。
お経をあげてもあなた達の生老病死の苦しみが解除されなければオウムの物まねに支払っただけ。
コスプレ僧侶に「支払う」のは布施ではない。
真のお坊さんとは「応供」(おうぐ)という。供養を受けるの相応しい人間です。
何故供養されるのか。生老病死の苦しみを取り除いてくれるからです。
今のポクポク僧侶はそれをしているだろうか。
お坊さん便というが、本当にそれはお坊さんだろうか。
皆さんが、僧侶に対する質をもっとちゃんとしたものを求めないと、布施にならずコスプレ僧への支払いになるのです。それに加担するのは、どちらも仏教を破壊する行為だと思います。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

賛成、反対のどちらでもない

くねくね様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

色々と物議を醸しているAmazonの「お坊さん便」、拙生は、賛成、反対のどちらでもないのですが、仏教・仏法の本来的な目的・実践は、「衆生済度の聖業」(一切の衆生、輪廻に迷い苦しむものたちを救うための聖なる行い)であり、色々な方便は、方便としても、仏教・仏法の本来的な目的・実践に適うものとなっているのかどうかが、最終的に重要になるのではないかと存じております。

Amazonの「お坊さん便」においても、その問われるべき問題は、そこに単なる気休めではない、真なる救いや安心がありうるのかどうか、ということになるのではないかと存じます。

仏教とビジネス、仏教と営利、仏教と経営・・色々と相いれないと思われることももちろんあるでしょうが、その時代や環境の変化に応じて、寛容・柔軟になるべきことと、絶対に妥協・譲歩してはいけないことと、そのバランスを取りながらにも、「衆生済度の聖業」という本来的な目的・実践をしっかりと推し進めていく役割を担っていかなければならないのが、僧侶、寺院のあり方として最も大切になるのではないかと考えております。

確かなる「衆生済度の聖業」の実践へと向けて、犀の角の如くに中道を歩むことができていけますように、この浅学菲才の未熟者におきましては、しっかりと省察しつつ、これからも仏法の修習に努めて参りたいと存じております。

川口英俊 合掌

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おきもち

最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断しています。 https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k

沈黙をもって応える

あの世はあるのか。
その問に世尊は沈黙をもって応えた。

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「平等」という嘘を信じるな。 仏はこの世が不平等であり辛苦から絶対に逃れることの出来ない世界であるという。絶対に逃れることが出来ないにも関わらず、「平等」によって或いは「楽」によって人間が救われるというのは矛盾である。 不平等で辛苦極まりないこの世をあきらめ死後に救いを求めるのも人間否定そのものでお話にならない。 平等というのは自分が助かりたいという思いから生まれた自己優先の魔界の教えである。仏教はそうではない。 人を助けることを優先にすれば自分も救われるという考えだ。 人のために活きることで不平等が不平等でなくなり、辛苦が辛苦とも感じなくなるのである。 世のため人のために働いてみる。 「有り難う」 その言葉で、人はそれまでの苦労が苦でなくなるのである。 これが仏教の真の教えである。 生温い癒やしなどまったく意味がない。 積極的に人生を切り開くための教えに耳を傾けるべきである。 お寺やこのようなサイトの利用は一回にとどめなければならない。何度も相談するということは、まったく良くない傾向である。 お坊さんから聴く「仏の教え」によって生きる力を得て、二度とお寺に相談する必要がない幸せな人生を手に入れて欲しい。 本来ならば実際にお寺に足を運び相談すべきである。ここでご縁のあったお寺さんに必ず足を運ぶべき。それが億劫ならばその程度の悩みだということ。本当に切羽詰まっている人は必ずお寺に足を運ぶ。 その観点からご自身の悩みがどの程度のものなのかを推し量ってみることも有効であろう。 それと仏の教えが必要のない質問は無視する。なんでも応えてくれると思ったら大間違いだ。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ