面識の無い方の自殺を目撃しました
初めて質問させていただきます
よろしくお願いいたします
私は集合住宅に住んで居ます
高い建物のせいか
飛び降り自殺が後を絶ちません
住民であったり
ただ死に場所を求めて来られた方だったり
年に1度かそれ以上おきています
家はリラックスする場所
仕事から帰って安心できる場所なのですが
そんな自宅が自殺の名所のようになっています
これまでも
遺体を見てしまうことが数回ありました
見ていなくとも
「また死んだんだって」と親切な方が教えてくれて知らされることも多々あります
その度に
とても重苦しい、嫌な気持ちになります
友人と遊びに出かけ夜に帰宅すると
やはり転落した現場を歩くことや
最期に掴んだ手型をのこして
飛び降りた手すりの横を歩くことが苦痛です
同じ建物の住人で
人となりを知っていたら少しは
どう生きて悩み命を絶ったのだと思うことができるのですが
全く見ず知らずの
どこのどなたかわからない方がやって来て
自宅の玄関前から飛び降りて
その下で身体が壊れ飛び散っている姿を目の当たりにするのは
とても嫌なのです
電車の人身事故で
運転見合わせの度に怒り
舌打ちする人に冷酷さや嫌悪感を抱くくせに
自宅の前で自殺されると
「なんで家の前から飛び降りるの」だとか
「死にたいなら自分の家で…」などと思ってしまい
そんな自分にも非情さを感じます
とても薄気味悪い 嫌な気持ちでいます
落ち着くはずの家で
色々な出かける予定があっても
自殺の起きたあとは夜の外出が嫌で断ったこともあります
数年前に母が亡くなったときや
仏壇を選ぶときに
死とは忌み嫌うことではないと
住職さまのお話を聴きました
その直後に起きた自殺のときは
何故か
怖いだとか気味が悪いという感情がなく
「あの方は精一杯生き、自分を守りたいがゆえに命を絶った、それほど苦しみながら生ききったのだ」という感覚でした
挨拶を交わしていた住民の方だったからかもしれません
それなのに
この度の 自宅前からの頭の無いご遺体の姿が
焼き付いてはなれません
迷惑だという憤りより
地縛霊などと噂され心を乱されること
夜の外出が嫌になる感覚や恐怖心
生活や日常があるのに
ままならなくなることが苦痛です
この先も
それを止めることはできないでしょうが
心がざわつくのを
どうしたら良いでしょうか
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
本当はその人もより良く生きたかった
まず、亡くなられていった方々に謹んで哀悼の意を捧げます。
その亡くなられた方が本当に成仏するというのは、こちら側の心のあり方も大切なのです。
人は人の死を目の当たりにすると、こちら側の心が愁いを帯びるものです。
その憂いというのは明らかならざる思いです。
本当はその人だって死ぬためだけにその年まで生きてこられたわけではないでしょう。
会社でひどい目に遭った、家族との間で板挟みにあった、何らかのお辛いことがおありであったのではないかと思います。
心の逃げ場、進むべき方向が分からなくなる。それによって、人は時として冷静な判断を失ってしまうものです。冷静に考えればわざわざ死ぬことも無かったろうにと思われることでも、当の本人さまからするとそれどころではない本当に心が苦しい事態だったのです。
それが自死、自殺という選択を選ばれた。それもあえて故人の尊厳のために申し上げれば、それほどまでに苦しい状況から救われたいと願った、自由を求めたお姿であったのかもしれません。
その人の人生というものはその亡くなった瞬間だけではありません。
それまでの間に積み重ねてこられた軌跡があるはずです。
あなたはあなたとして何が起こるかわからないこの人生の中において自分の心の完成を求める必要があると思います。
仏教とは一言で申し上げれば「なるべき心になること」。
悟り、成仏、やすらい、涅槃、彼岸、菩提、智…、これらの言葉が示していることは皆共通します。その心、その一心を自らの心に見出すことです。それを求めて仏の教えを学ぶことです。成し遂げられるべき心があなたの中で本当に見いだされることによって、あなたも成仏する。その人も成仏するのです。厳密にはあなたの中のその亡くなられてしまったその人への思いが成仏する。本当の安らいの心に導かれる。
是非、仏の教えを学ぶことを他人ごとにせず、自ら自らの心を導くべく発心(発菩提心)なさってください。
幸せな悩み 追記
自分の人生でいっぱいいっぱいだったら、他人の死を見ても舌うちして終わり、かもしれません。
自分が不幸だと、赤の他人の死をいちいち気にしていられないでしょう。
そう考えたら、あなたはまだまだ幸せなのかもしれませんね。
仏教では、遺体が朽ち果ててゆく姿を観察したり思い浮かべたりする修行もあります。
諸行無常などの真理に納得するために。
ですから、そのような場面にでくわしたら「良い修行のチャンス」ととらえることも良いでしょう。
また反対に、嫌なことは思い出さないように、マインドを管理することも有効です。
過去のできごとにとらわれると苦悩が増えます。
見たことは、見た瞬間は現実だったが、今はもう実在しない幻ですからね。
浄土宗では、南無阿弥陀仏と念仏すれば極楽浄土に往生できると言います。
遺体が怖いなら怖いままでもよい。そのままのあなたで「なむあみだぶつ」と念仏を口にとなえれば、それであなたの人生はOKです。
追記
あなたの心が静かになるのが、一番です。
色んな考え方を試してみて、心が落ち着く考え方をみつけるのも、「生きる力」だと思います。
「おたがいさま」。まさにそうですね。誰でも悩みをかかえているわけですし。
自殺者の9割は「うつ」だと聞いたことがあります。つまりは、病死みたいなもの。
質問者からのお礼
回答いただきありがとうございます
この度、自死された方への哀悼の意や、私への教えに感謝いたします
回答を読み
亡くなられた方も本当は生きたかったのだろうか
生きることよりこんな高さから身を投げることを選ぶほどの苦しみとは
どれほどのことだったのかと考えるうちに
涙が止まらなくなりました
どこのどなたかわからない
あれから身元はわかったのか
家族があったのか
何も知る術はないのに
何故だか 悲しくてなりません
今回のことで涙が止まらなくなったのは2度目です
まだご遺体がある時に
私たち住民は
その方に見覚えはないか、住民で似た人は居ないかと警察から聴き取りを受けているとき
何人かの警察官の方が
飛び散っていたその方の脳や肉片を拾い集めている姿を目の当たりにしたとき
それを大切に大切に扱う姿を見て
突然涙が流れてしまいました
気持ちが悪いとか怖いと思う私とは違い
警察の方たちは 地面を這うように
小さな欠片も残さず 集めていました
私が泣いたところで
あの方が救われることもないだろうに
涙が止まらなくなりました
そしてまた、いただいた回答を読み
どれほど怖かったか苦しかったかと涙しました
そういう思いがありながら
やはり玄関を開けるのが怖い
家に帰り鍵を開けるまでの束の間に
その背後から身を投げた事を思い出して
息苦しいような感覚と怖さに支配されているのもまた事実です
仏の教えを学び
私の中のあの方への心を成仏させること
と回答のなかで教えていただきましたが
この恐怖心や目の当たりにしたショックで
転落や手の跡が残る現場を通ることが怖くて
自分の家に帰れず
車の中で夜が明けて明るくなるのを待ち
仮眠して仕事に行くような状態で
体調を崩しつつあります
前の生活に戻りたいです
今の私には何が足りなくて恐れを感じ
このような生活をしているのでしょうか
トラウマなのか怖さなのかわかりません
今の状態を克服する為には
どのように捉え 考えたらよいのかわかりません
気味が悪いとか怖いと感じること自体
亡くなった方に失礼だなと思う反面
どう捉えたら良いのかわかりません
「なるべき心になる」ということ
その現場や 転落に選ばれた自宅前を
平常心で通る
当たり前の生活として取り戻すために
どのように思うべきなのでしょうか
これまで自分も
辛いこと苦しいことを耐えてきたつもりですが
なんだか自分まで
こんなことで帰りたいのに帰れない自分に
疲れてきました
特に趣味もなく1人での子育てを終え
楽しみは自宅でゆっくり過ごすこと
映画を見たり お風呂に入ったり
本を読んだり
そのささやかな楽しみさえ
暗くなったら怖くて家に近づけないなんて
辛いのです
亡くなった方に比べたら
些細な辛さだけれど
文章がまとまらず恥ずかしいのですが
申し訳なくおもいます
追記させてください
回答を何度も読み返し
私が書いていることと気持ちを
考えていて、ふと思ったのですが
私の自宅の前から というのも
なにかのご縁なのでしょうか?
読み返していて思ったのです
間違っているのかもしれませんが
計り知れない苦悩の末に自ら命を絶った
そこに至るまでの心の有り様を思うと
苦しみから救われたいと願った方が
命を絶った後まで
この様に
その行為のせいで心を乱される等と考えているのは
亡き後までもを私が
あの方の行動のせいで…と責めているように思えてきました
そして思うのです
もういいじゃないか、こうなった後まで
責めるように言われたり
その行為のせいで被害を受けてるかのように
言っていては
いくらなんでもかわいそうだ
そうして亡くなったあとくらい
ただ お疲れさまでしたと
どうして思ってあげられないのか
自分も辛いけれど
あの方も辛かった
すべてを受け止め
ゆるす というのはおこがましいけれど
もう いいじゃないか
と思う気持ちがわいてきました
仏の教えは 今の私は わからないのですが
こういう思いは 間違っていますでしょうか
なんというか
回答を読んでいるうちに
お互いさま というような気持ちになり
少しずつ 心が静かになっているように思います
願誉浄史さま
回答をいただきありがとうございます
「なむあみだぶつ」と声にだしているのですが
その意味を深く理解していないせいか
心が迷うのですね
こんな時だけ「なむあみだぶつ」と唱えても
魔法の言葉ではないからでしょうか
回答のタイトルの 幸せな悩み という一言に
ひどく混乱してしまいました
他人の死に舌打ちして終われず
赤の他人の死を気にしていますが
幸せな人だ と言われると
少し 違和感と悲しさがあります
仏の教えの中で
何が幸せで何を不幸とするのか
わかりませんが
ずいぶん前に子どもを亡くしています
いつまで経っても昨日のことのようですが
苦しいことを表に出すのは苦手で
確かに「あなたは悩みがなくていいよね」と
言われる人生でしたが
私にとっては苦しいこともそれなりにありました
質問にあった方のご遺体を見た時は現実で
過ぎてしまった今となれば幻
と思いたいのですが
警察の方が現場を洗い流してくださいましたが
その方の身体があった形にチョークで書かれ
血痕も消えないまま残っています
自分なりの
心が落ち着く考え方を見つける
生きる力をつけること
ゆっくりとではありますが頑張ってみます
できるだけ
心を乱されることなく
怖いことや嫌なことを避けて生きていくなんてことはできないですね
人と関わり生きているのだし
自宅の玄関の前であろうと
私だけの場所なんてこの世にないでしょう
自分だって誰かの心を乱しているかもしれない
穏やかに暮らしたいけれど
いろいろな苦しみや悲しみはあって
その度に迷わないように
困った時だけ「なむあみだぶつ」ではなく
普段から…と思います
ありがとうございました。