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義両親について

回答数回答 3
有り難し有り難し 19

義母さん(寺庭)が 寺の事を一切やりません

わたしが子供の入院に付き添い、寺を空けたときもお供えしたお仏飯は 入院前のままでカビており それも全く気にしない様子

祭壇の花も 買ってまでしなくていい

誰かが入れるだろうからと
寺がそんなことしてたら 檀家さんにそのうち背中むけられますよね
どうしたらやってもらえますでしょうか
風邪もひけません

ちなみに義両親とは別居で、住職(義父は通いです


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

やらない

長年の習慣を変えることは難く、年配者は更に困難と理解しましょう。
それより。
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あなたのその思いは仏様がお喜びになる思いです。
仏様がいらっしゃることを心から信じるからこそお給仕ができるのであり、今あなたの心の仏性は仏様の仏性と通じ合っています。
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言動も心の内もすべてが仏様へのお給仕なんだと思えばこそ、汚いものをお供えするわけには参りません。
あなたの正しい心を、どうぞそのまま仏様にお供えください。

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おきもち

「平等」という嘘を信じるな。 仏はこの世が不平等であり辛苦から絶対に逃れることの出来ない世界であるという。絶対に逃れることが出来ないにも関わらず、「平等」によって或いは「楽」によって人間が救われるというのは矛盾である。 不平等で辛苦極まりないこの世をあきらめ死後に救いを求めるのも人間否定そのものでお話にならない。 平等というのは自分が助かりたいという思いから生まれた自己優先の魔界の教えである。仏教はそうではない。 人を助けることを優先にすれば自分も救われるという考えだ。 人のために活きることで不平等が不平等でなくなり、辛苦が辛苦とも感じなくなるのである。 世のため人のために働いてみる。 「有り難う」 その言葉で、人はそれまでの苦労が苦でなくなるのである。 これが仏教の真の教えである。 生温い癒やしなどまったく意味がない。 積極的に人生を切り開くための教えに耳を傾けるべきである。 お寺やこのようなサイトの利用は一回にとどめなければならない。何度も相談するということは、まったく良くない傾向である。 お坊さんから聴く「仏の教え」によって生きる力を得て、二度とお寺に相談する必要がない幸せな人生を手に入れて欲しい。 本来ならば実際にお寺に足を運び相談すべきである。ここでご縁のあったお寺さんに必ず足を運ぶべき。それが億劫ならばその程度の悩みだということ。本当に切羽詰まっている人は必ずお寺に足を運ぶ。 その観点からご自身の悩みがどの程度のものなのかを推し量ってみることも有効であろう。 それと仏の教えが必要のない質問は無視する。なんでも応えてくれると思ったら大間違いだ。

怒りの理由が正義でも、怒ったら邪悪。

どんなに正しい理由があっても、正しくない他人に対してでも、怒ったら邪悪の心なのです。
怒りは、自分自身のストレスになるだけです。
ですから、義父母に期待しないで、怒らないような考え方にした方が、生きるのが楽になります。

風習はあくまで風習、仏像に御飯をお供えしなくても、罰があたるわけではありません。
生きた本物の仏様ではないのですから。
仏像は、仏様をイメージするための道具にすぎないのです。道具にとらわれて怒りやプライドの煩悩の火に油を注いでいては、逆に仏様の教えに反してしまいます。
生きていない仏像よりも、生きている義父母を労るほうが大切です。
子育ても大変でしょうし、無理しないでくださいね。
お花を生けるのは楽しんでやれればすばらしいですね。経費でお花買えて、楽しめるなんて最高です。(欲の煩悩。)

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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

仏道はわがことなり

「他の人の為すと為さざるを問うことなかれ。
ただ、己の為すと為さざるをのみ問うべし。」
人がやっているから、やっていないからブツブツではないのです。
人生、この自分がどうか。それだけでいいのです。
このhasunohaの回答も同じです。
回答しなければいけない、というわけではない。
回答する人が回答する。別に回答しない方をとやかく言う必要もない。
また、為すといっても仏道は、そういう己の見解を離れるために為す為すのです。
自分をやろうとしない事。
仏道は自分自分したものを離れるのです。
仏道とは我が事を行ずるのみなり。
人の為さざる事を問題にするのもあなたの身の上の事。
それが問題になってイライラするのであればそれこそが修行の課題。
人生は、人のことが問題になる自分の心こそが問題。
その心をおさめずして、自己の仏への本当の供養はないと言えましょう。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ご返信、ありがとうございました

わたしは在家出身で てっきりお寺さんには お寺さんのお手入れの仕方や なんなりがあると思っていましたが 違ったようです。

実家の母がしていたことを真似しているだけで、このようにお褒めいただくとは思ってもいませんでした

「生きてはる方と同じようにさせてもろたらどうやろか」と言われ続け 育ってきましたので それプラス嫁ぎ先で学ぼうと思っておりました

生きてる者は カビったご飯は食べませんよね お花も枯れたのもらっても嬉しくないですよね

今は4ヶ月の娘を背負い、2歳の娘がお昼寝してる隙に、色々させていただいてます

ありがとうございました

そうですね 人を変えるのは相当なエネルギーと時間を費やしますね

片目をつぶっておくことにします

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ