死ぬことについて
私は死ぬのが怖い、家族の死が怖いと、毎日一日中怯えているのですが、最近、死も老病と同じく人のある状態であるから、特別視しなくてもいい自然なことかなと思うようになりました。人間のある姿という点においては、死も老や病と変わらないと思うのです。ですがそう考えると、毎日のテレビなどのニュースで報道される、事故死、早死になどの死亡のニュースはセンセーショナルで、とても人間の自然な死に方とは考えられないのです。死に方に優劣はないと思いますが、そのような特殊な死に方について、どう考えたらよろしいでしょうか?自分なりに考えた死ぬことは自然という、論理に反しています。どうぞよろしくお願いします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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心のありようを問題とする
ユキコ様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
「死」というものは、皆に平等に訪れる事象ながら、その「死」に対して、意味や理由や価値付けを行ってしまって、差別しているのが私たちのありようとなります。
そして、それらの意味、理由、価値も、「これで正しい」、「これで決定」として言えるような実体としてあるわけではなく、色々な死への因縁(原因と条件)次第に依るところであり、また、それも、それぞれの人が「死」を捉えるそれぞれの心の因縁次第でも異なってくるものとなるのであります。
とにかく仏教においては、「死」を問題とするのではなく、死後にも続いていく「心」のありようを問題とするのであります。
より善き赴きへと向けて、業(カルマ)を清らかに調えていくために、仏教をしっかりと修して参りたいものであります。
川口英俊 合掌
生きること
拝読させて頂きました。
あなたも私達も生きているのですから自分の死も身近な方々の死も怖いものです。
それは生き物である限り宿命かと思いますし、死を目の当たりにしたならば必然的に怖いと畏敬の念を抱くのも当然かと思います。
極論を申し上げますと生きている限りにおいて連続的に死を超越することは大変難しいことかと思います。
悟りを得て真理を知り仏となって初めてその死を超越し達観できるかもしれません。
地震が起きるすぐ前に生き物たちが瞬間にそのことを察知して必死で逃げようとします。恐れおののき避難しようとします。
それでも自然の猛威にさらされると只々震えおののく事しかできないのが実情かと思います。
先日福島県相馬市の震災慰霊館に行き、津波が町を襲い掛かる映像を見ました。
今でもその光景を見て津波の振動の音を聞くと自然に体が震えだして震えが止まらなくなり、幾多の建物や車や人々や動物が飲み込まれていく様を見ると頭が強烈に押し付けられるような脅迫観念に襲われます。その次の瞬間には涙がとめどなく流れてきます。
耳を塞ぎ目を閉じてしまいたくなります。
そして只々手を合わせて祈りをささげることだけになります。
震災での死が特殊であるのではありません。事故による死が特殊であるのではありません。
難病による死が特殊なのでもありあません。幼くして亡くなることも特殊なのではありません。
死は私全てのものに平等にあるもですし、その生命そのものでもあります。
そして死に対して只々手を合わせて祈りをささげるものでもあります。
死を目の前に私達は様々に学んでいくのかと思います。
何度も何度も死に問いかけそして生きることを問い直していくことが私達の人生そのものかと思います。
あなたがこれからも死にお向き合いになりながらその有り様を見つめ、そして己の人生や生き方に真摯に向き合い、日々の生活を大切に皆さんと共に共有なさり豊かに生きていかれます様心からお祈りさせて頂きます。
質問者からのお礼
川口さま。死ぬことより、死後も続く心のありようが、仏教では重視されるというお言葉に、心をどのように持っていれば、より良く生きられるのか関心
を持ちました。アズマさま。死は私たち全てに平等であるというお言葉に、胸を打たれました。特殊な死と特別視しないで、心から供養したいと思います。また、震災のお話も改めて聞き、被災者の方々に心を寄せようと思いました。お二人とも、私の拙い問いに真剣に向き合って下さりありがとうございました。