感興のことば第26章13の内容について
仏典についての質問です。
正式に仏教の知識を学んだこともありません。
己の体験と仏典を照らし合わせて仏道に勤しんでいます。
浅学でお恥ずかしいのですがお答えいただければ幸いです。
感興のことば第26章 安らぎ(ニルヴァーナ)の13です。
僧侶であればだれでもが親しんでおられる仏典だと思われます。
「13 ①前にはあったが、そのときには無かった。②前には無かったが、そのときにはあった。③前にも無かったし、のちにも無いであろう。また今も存在しない。」の内容をお知らせください。
個人的な一考察ですが、
①「前にはあったが、そのときには無かった」とは、
A:前には「認識している私」という意識があったが、そのとき(=安らぎ)ではすでに「私」というものは無い。
B:前には「渇愛」があったが、そのとき(=安らぎ)では「渇愛」はない。
②「前には無かったが、そのときにはあった。」とは、
前には「智慧」は無く「無明」であったが、そのとき(=安らぎ)には「智慧」があった。
③「前にも無かったし、のちにも無いであろう。また今も存在しない。」とは、
前にも「魂」は無かったし、のちにも「魂」はないであろう。また今も「魂」など存在しない。
という勝手な考察ですが、お坊さんの体験された内容をご伝授いただければ幸いです。よろしくお願いいたします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
こんにちは。
なんだか手品みたいなことばですが、①②③の主語は別々ではなく、ひとつのものについて言っていると思います。
岩波文庫の「ブッダの真理のことば 感興のことば」(中村元 訳)には、そこに訳注があり、
「これは古い詩であり、聖典自体のなかでいろいろに解釈されている。『テーラガーター』一八〇によって、かつては生存の貪りがあったが、今は無い云々という意味であり、『ウダーナ』六・三ではいろいろの悪について言うのであると解していたようであり。『出曜経』によると、我が有るとか、無いとかいう外道の論議についていうと解している」
とありました。
質問者からのお礼
光禪先生
お返事ありがとうございます。
他の参考になる聖典がありましたらご紹介いただけると幸いです。
よろしくお願いいたします。
合掌
追記いたします。
①「前にはあったが、そのときには無かった」とは、
前にあったものには、「煩悩=貪瞋痴」「識別作用」「無明」「世間」「有為」「幻」
「自我」等々数えきれないくらいの囚われの「一切」ではないでしょうか。
そのとき(=安らぎ)においては、一切が無い絶対の世界。
「色是色、空是空」のあるがままの世界。
②前にはなかった「寂滅為楽」が、安らぎにおいてはあった。
③は、体験しなければ分からない「不生不滅」=「真如」のこと。
生まれてもいないし、滅することもない。
「安らぎ」を体験しなければ、前にも、のちにも、今にも存在を知ることができない。
追記いたします。
①「前にはあったが、そのときには無かった」とは、
前にあったものには、「煩悩=貪瞋痴」「識別作用」「無明」「世間」「有為」「幻」
「自我」等々数えきれないくらいの囚われの「一切」ではないでしょうか。
そのとき(=安らぎ)においては、一切が無い絶対の世界。
「色是色、空是空」のあるがままの世界。
②前にはなかった「寂滅為楽」が、安らぎにおいてはあった。
③は、体験しなければ分からない「不生不滅」=「真如」のこと。
生まれてもいないし、滅することもない。
「安らぎ」を体験しなければ、前にも、のちにも、今にも存在を知ることができない。
三宅 聖章 先生
ご回答ありがとうございます。
①身がなくなるという体験。
②仏法への信頼。
③努力せずに到れない。
柳原貫道 先生
ご教示ありがとうございます。
「言葉」には限界があり、訳者や読者の受け取り方で数えきれないほどの解釈があります。
「自灯明・法灯明」自らの実体験で経典を確認することに励みます。
合掌