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婚約者が亡くなりました

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婚約者を亡くして5ヶ月が経とうとしています。
仕事も再開し、元の生活に戻りつつありますが、家に帰った後や休みの時など、無性にさみしさがこみあげます。

仕事が忙しい上に結婚のことでさらに無理をさせてしまったのかもしれない、子供がほしいと私が言ったばかりに高血圧の薬を飲まずにいてしまったのかもしれない、などと私と出会わなかったら彼は生きていたのかもしれないと考えてしまいます。

結婚の話を伝えていた友人にも彼の死を伝えられていません。
まだ自分で伝える勇気がないということと、友人たちに私がかわいそうだと思われたくないという気持ちがあります。結婚の話をしていたとても幸せな私のままの記憶でいてほしいという、私のただのわがままです。

どうしようもない位悲しくて大泣きをする日もあれば、泣かずにいられる日もあります。
いつになれば、この悲しい出来事にきちんと向き合えて、気持ちにブレがなく考えられるのでしょうか。

質問にまとまりがなく申し訳ありません。
愛する人を亡くしたものへ、生きるための力をいただけたらと思います。

よろしくお願いいたします。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

それって単純にとても悲しいこと。

大変お辛い日々を過ごされてこられたようですね。
誰だってその状況であれば悲しくてやりきれない気持ちになってしまいますよ。
私があなたの立場であるとすれば、きっと自分は喪失、ロス、ミスという心理にあるとみると思います。何かを失うって本当は事実にはありません。心で失ったことを想起するときにその喪失感が自分を苦しめるのです。それは私は坐禅によって気づきました。
ある時、大事にしていた茶碗が割れました。ガチャン。それだけなのです。もちろん、これは物です。人間ではありません。パートナーではありません。ですが、ここで申し上げたいことの趣旨を何とくなくフィーリングで感じ取ってください。
これはあなたのことではなく、人が何かを失った時の心理としてこういう心理が起こるということを客観的に知ってほしいのです。
ああ、失われてしまった。
ああ、大事な存在が。
ああ、私は失ってしまってみじめでとても悲しい。
ああ、いたい。ああ、さびしい。ああ、とりのこされたような。
ああ、傷つく。ああ、戻ることはできない。
負の想念の無限ループが人の心を縛ります。
私は法話でよくこういうことをお話します。
「失わせてはならない」
自分がその人を失わせてしまうと、あなたの中でその人は失われてしまう。
仏教はお釈迦さまを失わせていません。生きている我々の導きの師として今も我々は悟りを得られた方として尊敬して敬っています。人は心理作用体として死後も存在し続けます。ここでいう存在とは作用としてあるということ。死ぬことがあっても失われることはありません。
縁のある人の心の中において心理作用として、影響力を及ぼしますし、記憶喪失にでもならない限り、消えることがありません。
だからこそ、あなたは二つの矛盾を解決するべきです。一つは、亡くなったということをきちんと供養して彼を死後も自分を成長させる存在「仏位」として敬いまつること。それが亡き人を活かす残されたものの態度です。もう一つは、あなたの中で彼は失われていないということに気づくこと。世間の多くの人は誤認します。人が死んだら終わりだと思う。だとしたらあなたは何故ないているのか。終わりならそこですっきり終わりなのです。ところがあなたは泣くほど悲しい。それはあなたの心の中の正直なSOS信号です。導かれるべきこころに導かれるべきです。菩提心をもって自身を導くべきなのです。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

彼もあなたの幸せを祈っていると思います

 婚約者の御逝去、心よりお悔やみ申し上げます。結婚を心待ちしていたことと存じます。お亡くなりになられた婚約者にとっても、あなたにとっても、辛く悲しい別れとなってしまいましたね。

 人生にはいろんな苦しみ悲しみが付いてきます。仏教では、其の苦しみについてかなり詳しく分析しておりますが、一般には四苦八苦という考え方にまとまられています。その中の一つに「愛別離苦」があります。愛する人大切な人と別離する苦しみのことを言います。この度の婚約者との突然の別離はまさに愛別離苦であると思います。 こういう悲しい別れを経験したくはないですけど、残念ながら人生の中で幾たびかこういう経験をせざるを得ません。一生に一回なんてものじゃありません。あなたには家族が居て、友人が居て、いろんな仲間が居ると思います。大切な人が居れば居るほど、何度も何度も悲しい別れを経験するしかありません。どんなにつらく悲しくとも、今の自分の生命を大切にし、しっかりと日々の生活を送っていくことが、残されし者の務めです。

 日本の仏教は、大乗仏教に分類されます。大乗仏教が菩薩道の仏教であると言われいます。大乗仏教の修行者は仏となることを目指して永遠に修行し続けるます。自分の幸せや悟りよりも、他者の幸せや悟りを願う自未得度先度他(じみとくど せんどた)を請願し、実践に努めます。そのような修行者を菩薩と称し、修行する道筋のことを菩薩道と言います。この生き方はあの世に往かれた方にも、此の世に生きる我々にも当てはまる生き方です。

 彼は御仏の世界で仏道修行しつつ、此の世に居るあなたの幸せを願ってると思います。あなたは此の世の人生を一生懸命生き自分の幸せを目指すと同時に、彼の幸せを祈り続けましょう。

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個別相談可能
 目の前の方の悩みや気持ちをしっかりと受け留め、心を開いてもらうように努めております。決して容易いことでは有りませんが、一期一会の気持ちで相談に、葬儀法事に励みたいと思います。    最初法学部部にで学び、4年間ほど公務員をしていました。(税務署勤務)その当時の学びと経験を終活相談に活かしたいと思います。                                              昭和63年5月に住職となってから、30年が過ぎてしまいました。仏教学・禅学もそこそこ真面目に学んだつもりですが、宗教学・宗教民俗学に力を入れて学びました。そういう分野については丁寧な回答が出来るかも。
一人一人の気持ちに寄り添い、傾聴に徹して、心をほぐしてあげられるよう、努めたいと思います。 それと同時に、完璧に出来るとは限りませんが、其の人が歩むべき方向を一緒に考えてあげたり、次の一歩を踏み出せるよう背中をおしてあげられるよう、努めたいと思っております。

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