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自己嫌悪から抜け出せないのが苦しいのです。

回答数回答 3
有り難し有り難し 90

相談させてください。
私は26歳の大学院生です。高校卒業後に3年間、精神疾患の治療のため引きこもりのようになっていました。

その3年間はもちろん、高校在学中も精神疾患により勉強が出来ず、勉強の遅れはかなりのものだったと思います。
しかし当時の私は「絶対に治るんだ」と固く心に決めていて、また両親が教師であったことも幸いして、
疾患が治った直後の半年ほどの勉強で地方私立大学に合格出来ました。

その後、やはり足りていない勉強を頑張り、また不眠症で使える体力が限られる中、
外部受験を行い、現在は地方国立の院生になれました。

今の大学はとても良い就職先を持っていて、今までの気を張りつめた感じは全く必要ありません。
特に私は理系の女子学生であるため、就職はよほど変な事をしない限り大丈夫でしょう。

しかし私は、それに怒りのような、やるせないような、気の滅入るものを感じています。
環境の変化によるもの、と言ってしまえばその通りだとは思いますが、
実害(研究活動の遅れ)が出てしまい、非常に困っています。

研究活動が主なのですが、頑張ることが犯罪のように感じています。
というか、今の自分が嫌いです。
頑張っても、頑張るなんて悪いことをしている、と全然喜べません。

嫌な夢もたくさん見ますし、嫌なこともたくさん思い浮かびます。
(私をいじめた人(精神疾患の原因はいじめなのです)は今どんな大学に行き、
どこに就職しているか、結婚しているか、幸せか、など。)

これらは考えても仕方のないことです。それはわかっているのです。
が、どうにも悲しくなります。地方とはいえ国立大に入れたことで、「いじめが無かったらありえた人生」が具体的に描けるようになってしまったのが原因ではないかと自分では感じています。

要するに、ありえた人生に比べたら、今の人生はゴミクズのように価値の無いもの、と感じているのだと思います。
それで"いじめをした人"に思いが及ぶようになったのではと思っています。

私は人生をやりなおしたいと感じています。
また、今はこれまでの努力に価値を感じられません。
悲しさが極まると自分の頭を叩きます。自分を罰することが出来たと感じられ、その時は自分を許せます。

こういう気持ちで居続ける事が辛くなってきました。
助言を頂けないかと思っています。
よろしくお願い致します。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

ちょっと愚痴らせて下さい

ホンの数年前までお坊さんの世界への風当たりは酷いものでした。特にお寺で生まれ育ったお坊さんにのほとんどは、大なり小なりトラウマを抱えて生きています。

私自身も高速のサービスエリアで見ず知らずの男性に「君のお父さんはお坊さん?」と聞かれ、そうですと答えたら下卑た笑みを浮かべ、「君のお父さんは人が死んで喜ぶ最低の奴なんだぞ」と懇々と説かれたことがあります。

お坊さんの世界も綺麗なモンじゃありません。例えば宗派や出身道場で偏見もって絡んでくる人。「日本中クソ坊主だらけ、俺だけが真面目にやっている」と吹聴しまくり、お坊さんの評判が悪くなった!俺が辛い思いしたのはあいつらのせいだ!と。お前こそお坊さんの評判悪くした張本人じゃねーかと。

中も外も敵だらけですよホント。泣けてきます…

でもね、そうじゃない。本当はそうじゃない。お釈迦様って、無敵の慈悲で尊敬されまくってるように語られてますけど、特に古い部類の経典を読んだら、行く先々で迫害されています。その上で、耐え忍べ、苦は避けて通れない。苦の中でも生き抜く覚悟を持てと説き続けたんです。忍辱(にんにく)の教えというものです。

お釈迦さまでさえイジメられたんですよ?イジメは許してはいけないけど、イジメを受けることは特別なものでは無いのです。地震や水害のように、誰の身にも降りかかりかねないものなんです。いじめられなかったら有り得た人生…そんなものはあり得ないんです。誰でもイジメられることがあるから。そこを受け止めないと人生は始まらないのです。

だから、イジメられたあなた自身の人生を受け入れてあげてください。お釈迦さまも、お坊さんも、辛い過去に目をつけがちな自分に負けないよう、修行しているんです。一緒に頑張りましょう

-追記-
申しございません。確かにおっしゃる通り、私はご質問に全力で寄り添わせていただくことができませんでした。現在、過去に例が無いほどたくさんのご質問をいただいており、疲れから勢いで回答してしまいました。しかし、このような時こそ時間をかけてご質問文からまっちさまの思いを汲み取り、向き合う努力をすべきでした。私の非礼にお詫び申し上げます。そしてご指摘いただきまして御礼申し上げます。身が引き締まりました。

(字数制限のため回答の一部を削除しています)

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有り難し
おきもち

曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouTuber「仏教・お寺ch 大慈」。 【現代日本仏教最大の課題のひとつはコミュニケーション不足】をミッションに10年以上、インターネット上で情報発信をしています。 YouTubeでは仏教の教えや読経だけでなく、お寺の真相やお坊さんの生活が分かる動画を配信しています。(リンクは↓のURL)

もし私の頭がよかったら もしお金持ちのお寺に生まれていたら

もし、ああだったら、もしこうだったらといろいろ考えるものです。
私はお坊さんになりたくなくて、仕方ない時期がありました。嫌々親の言う通りに小さいころからお寺のことをしてきました。
もし、お寺の子供でなかったら。そこの自由があったのではないか。お寺の子供でなかったら、修行にも行かなくてよかったし、遊んで暮らせていたのかもしれない。お金持だったかも。

そんなのモノは妄想にすぎませんでした。何の意味もない。現実はお寺の子でした。今はお坊さん。しかしそのことで学んだこともたくさんありました。今はお坊さんでよかった。とも思えます。こうした生き方ができたのはお寺に生まれたからだと。

あなたは、いじめにあったからいじめられる人の気持ちがわかる(肯定しているという意味ではないですよ)優しい人です。苦労して勉強したから、人に教えることが上手でしょう。きっと。
なんの躓きもなく成長はありません。躓きがあったから今のあなたはここまでがんばれたのです。それが事実です。自信を持ってください。

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有り難し
おきもち

個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

人は二度現実に斬られる

「ぼくのナメクジ色の心を 現実はメッタ切りにした」 スガシカオ
仏道の世界に於いて人は二度、現実に夢をメッタ切りにされます。
①自分の夢が現実によってそうでなかったと目を覚まさせられる
②無色透明な無私の事実が金剛の剣となって自分の煩悩・妄想を断ち切ってくれる。
この②の方に出会うために人は、修行して心の最高の安楽の周波数を探し求めるのです。
私にも、あなたのようにそう悩んだどうにもならない時期がありましたよ。
なければ、ここでここまでやろうと思わない。
あったから、もう人が苦しまなくていいようにこういう活動をしている。
私はお坊さんの世界に入れば救われるのかと思っていました。
それは「私が考えていた事」でした。
現実の僧侶世界は私たちの考えていた夢をバッサリ切りました。
とりあえずトコトンやれるところまでやってみようと仏道の世界で道を求めるとある僧侶のところに行きつきました。
その老師が提唱される真実の前に私は世界がいい意味で灰色になった。
「ボクのナメクジ色の心は現実はメッタ切りにした」といスガシカオさんの世界観より、
「真実の仏法を目の前にしてボクの心がナメクジ色になって以来、真実はいつでもボクの妄想の暴走をメッタ切りにしてくれる」ようになったのです。それが悟りです。
悟りとは思考ではなく、思考で取り扱われる前のまっさらな事実の側をみることです。
ネットで検索してみてください。お忙しい方ですのでお電話等はご遠慮ください。
その方が開いておられる坐禅会に参加なさってください。
ただ、黙ってお話を聞いてみてください。
ただし、自分の考えを交えて、独自な解釈はしないでください。
必ず、救われますよ。
浜松龍泉寺 井上哲玄老師
掛川少林寺 井上貫道老師
今曹洞宗業界はおエライ立場が名誉職化していることは誰も否めません。
故に、ホンモノを探すより仕方ありません。
曹洞宗のお師家さんでこの方々より悟りがハッキリしている禅僧を私は知りません。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ご回答ありがとうございます。
私をいじめる事で、いじめられる危険を回避していた人をはっきり見ていますので、
誰でもいじめられるのだから、というお言葉には賛同できかねるのですが、
辛い過去に目をつけがちな自分と戦う、というのは必要なことだろうと思いました。

また、「いじめられた私が悪いというのは間違っているけれども、世間的な評価では3年の空白がある私の方が(いじめられなかった者より)劣っているのだ」と思い、
努力を徒労だと感じていました。(年齢は若く出来ないからです。)
それを許すということですね。

今までは「頑張れば3年の空白を埋められる(それだけの価値を身に付けられる)はずだ」と思うことで努力してきたのですが、
それとは別の頑張る理由が必要なのかもしれなせんね。

正直に申し上げると大慈様のご回答を、親身になって考えてもらえていないと感じました。
(許すだなんて簡単に言うなぁ、と怒りを感じました。)
が、私のつたない短い文章で全てわかってもらおうなどおかしな話です。
有意義な回答を頂けたと感じていますので、今後に生かせるように努力しようと思います。

>邦元さま
ご回答ありがとうございます。
今の人生を事実として受け止めた方が良さそうですね。

>大慈さま
読み返して、非常に親身になって頂けていたのだとわかりました。
丁寧なご回答ありがとうございます。

>丹下 覚元さま
禅の瞑想は、悪いことを考えないようにする(考えても仕方のないことに執着する)のを避けるのにとてもよいと聞いたことがあります。
覚元さまのご回答からそれを連想しました。
貴重な情報をありがとうございます。

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