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有我説と因果説について1

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有り難し有り難し 14

軽く気になってみたこの二つについて、否定された物が分かりにくくお聞きしたいと思います
まず、有我説における我とはなんでしょう?「不変の物」と言う意味なのでしょうか?
ここが「不変の物」と言う意味であれば、五蘊が我である・我は五蘊を有す・我中に五蘊があるは大体理解が出来ると思っています
「それは不変ではない」はすぐに分かります
最後に「五蘊中に我がある」これが例え「不変の物がない」と言う意味でもいまいち理解(イメージ)出来ません。どう言った事を語っているのでしょう?各々の要素がそれぞれいずれ変化すると言うような事を語っているのではない様に感じます
まぁ、それを言い出すと五蘊が我であるもいまいちイメージが一致しないのですけど…
この辺りはどう理解されている物なのでしょうか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

ものを「わたくし」することがない

この文字を見ている時に「俺が・自分が・おらが」とかなしに見ているのが人間の真実なのです。直後に私見や主観ともいうべき自分流のものの見方・見解が起こる。

どこかに中心を「立てる」と我らしいものが「あるように」感じるものです。
でもそれは「我」を立てた観念によるものの眺めなのです。

扇風機の風を肌で感じる。
そこに我はない。
ただ涼しさがあるばかり。
ただ、そこで一晩つけっぱなし風邪をひいたとする。
それも自分が風邪をひかせたわけでもないです。無我。
ところが、そこに文句やいちゃもん的な思いをおこす。
それは我です。
良寛さんの「災難におうてはよろしく災難に遇うべし」というのは、物事の因縁生なる人の我や見解が生じないままの無我なるさまを無我なる自己のようすで処することで、我が立たんから問題が無くなるよ、という意味にもなります。
もちろん、片付けはしないといけませんが。
俺流に・自分流にこうなんじゃないかなって、強く我見をたくましくしている時って人の話も聞きいれられないものでしょう。
この話も、わたくし・自分をさしはさまずに条件なしで、ただ因縁にまかせて読み取れる力があれば「ああ、なるほど。」となりましょう。
この身心に元々「我」というカタマリや中心はありません。
頭が「我」の一念を生じさせ、我がON状態になり、我が継続されている時、わたくし流の都合やカチマケ、優劣、損得が生じるのです。
ワタクシがONの状態で因縁に任せると腹も立ち、怒りに身を焦がすこともあるでしょう。
ワタクシの起動の無い無我のままで因縁任せな時は、ただただ感受があるばかりです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

理解しようのない取り合わせです

有我説?そんなものを説く教派が仏教にありましたっけ?まぁ八万四千の法門ですから無いと言い切るのは悪魔の証明ですが…

まず前提として、お釈迦さまの時代はインド版諸子百家の時代でした。色んな宗教や思想哲学が乱立してたんですね。
その中で有我説は当時の主流でした。そのアンチテーゼとしてお釈迦さまが無我説・非我説を主張したのです。
つまり有我説はバラモン教とか様々な異教の教え、五蘊皆空は仏教ですので、取り合わせて考えるのはナンセンスです。それらを1つのお皿に一緒に盛り付けたらプレバトの土井先生に叱られます。

ちなみに有我説の我とはアートマンのことです。何度輪廻転生しても核となる魂のようなものです。だから永遠不変ではなく永遠普遍だと大学の講義で習った気がします。業によって変わるのだから不変ではないと。遠い記憶ですが。よろしければどなたが書かれた本でお勉強なさったのか教えていただけませんか?

仏教やインド哲学は場合分けが出来ないと泥沼にハマってしまいます。薬と同じで飲み合わせ次第で酷い毒にもなります。その実例が地下鉄でのテロ事件です。独学はお勧めできません。理論理屈ではなく、hasunohaのような読み物で仏教的な感性を身に付けることをお勧めします。

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曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouTuber「仏教・お寺ch 大慈」。 【現代日本仏教最大の課題のひとつはコミュニケーション不足】をミッションに10年以上、インターネット上で情報発信をしています。 YouTubeでは仏教の教えや読経だけでなく、お寺の真相やお坊さんの生活が分かる動画を配信しています。(リンクは↓のURL)

質問者からのお礼

>>大慈さん
返信ありがとうございます
書き方が悪かったかもしれませんが「仏陀が否定した有我説」の詳細についてです
要するに「非我説についてこう解釈してはいけないよ」と言う事でもあるかと思います
「我はないと言う事は五蘊がただ我として現れる・在ると言う事なんですね」という解釈も出来るので、恐らくその辺りの否定もかねて居たのではないかと思われます
ただ、その場合ここで語られる「我」ってなんぞ?と言うのも出てきて分かりにくかったのでお聞きしました

>>丹下覚元さん
五蘊に中心を立ててはいけない(我見)、五蘊の外に中心を立ててもいけない(我所見)、五蘊の中に中心を立ててはいけない
という戒めであると言う事でしょうか?
何か事実や真実を語っている言葉であると思っていましたが、その辺りスタートが違ったのでしょうか?
やっぱり混乱してきたと同時に問題が絞れてきたのでちょっと追加でこの件について新たに質問させていただこうと思います

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