有我説と因果説について1
軽く気になってみたこの二つについて、否定された物が分かりにくくお聞きしたいと思います
まず、有我説における我とはなんでしょう?「不変の物」と言う意味なのでしょうか?
ここが「不変の物」と言う意味であれば、五蘊が我である・我は五蘊を有す・我中に五蘊があるは大体理解が出来ると思っています
「それは不変ではない」はすぐに分かります
最後に「五蘊中に我がある」これが例え「不変の物がない」と言う意味でもいまいち理解(イメージ)出来ません。どう言った事を語っているのでしょう?各々の要素がそれぞれいずれ変化すると言うような事を語っているのではない様に感じます
まぁ、それを言い出すと五蘊が我であるもいまいちイメージが一致しないのですけど…
この辺りはどう理解されている物なのでしょうか?
悪人をただの迷い人と見てしまいこの世に絶望中 知らない・分からない・見えないの苦しみを感じています 根本的に悪が執着の無意味さを知らず、何が執着であるか知らず、己の求める物を知らず、己の求める物を知る方法を知らず、未知へ踏み出す事への恐れしか知らないと見て、それが縁により生まれた物だと思えば、真の原因は変ええぬとしてもこの世だと絶望しています
多すぎかつ捻じれていて正確には明言出来るほど自信がありません。ただ終わりの時に納得して終わりたいとは思っています
お坊さんからの回答 2件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
ものを「わたくし」することがない
この文字を見ている時に「俺が・自分が・おらが」とかなしに見ているのが人間の真実なのです。直後に私見や主観ともいうべき自分流のものの見方・見解が起こる。
どこかに中心を「立てる」と我らしいものが「あるように」感じるものです。
でもそれは「我」を立てた観念によるものの眺めなのです。
扇風機の風を肌で感じる。
そこに我はない。
ただ涼しさがあるばかり。
ただ、そこで一晩つけっぱなし風邪をひいたとする。
それも自分が風邪をひかせたわけでもないです。無我。
ところが、そこに文句やいちゃもん的な思いをおこす。
それは我です。
良寛さんの「災難におうてはよろしく災難に遇うべし」というのは、物事の因縁生なる人の我や見解が生じないままの無我なるさまを無我なる自己のようすで処することで、我が立たんから問題が無くなるよ、という意味にもなります。
もちろん、片付けはしないといけませんが。
俺流に・自分流にこうなんじゃないかなって、強く我見をたくましくしている時って人の話も聞きいれられないものでしょう。
この話も、わたくし・自分をさしはさまずに条件なしで、ただ因縁にまかせて読み取れる力があれば「ああ、なるほど。」となりましょう。
この身心に元々「我」というカタマリや中心はありません。
頭が「我」の一念を生じさせ、我がON状態になり、我が継続されている時、わたくし流の都合やカチマケ、優劣、損得が生じるのです。
ワタクシがONの状態で因縁に任せると腹も立ち、怒りに身を焦がすこともあるでしょう。
ワタクシの起動の無い無我のままで因縁任せな時は、ただただ感受があるばかりです。
理解しようのない取り合わせです
有我説?そんなものを説く教派が仏教にありましたっけ?まぁ八万四千の法門ですから無いと言い切るのは悪魔の証明ですが…
まず前提として、お釈迦さまの時代はインド版諸子百家の時代でした。色んな宗教や思想哲学が乱立してたんですね。
その中で有我説は当時の主流でした。そのアンチテーゼとしてお釈迦さまが無我説・非我説を主張したのです。
つまり有我説はバラモン教とか様々な異教の教え、五蘊皆空は仏教ですので、取り合わせて考えるのはナンセンスです。それらを1つのお皿に一緒に盛り付けたらプレバトの土井先生に叱られます。
ちなみに有我説の我とはアートマンのことです。何度輪廻転生しても核となる魂のようなものです。だから永遠不変ではなく永遠普遍だと大学の講義で習った気がします。業によって変わるのだから不変ではないと。遠い記憶ですが。よろしければどなたが書かれた本でお勉強なさったのか教えていただけませんか?
仏教やインド哲学は場合分けが出来ないと泥沼にハマってしまいます。薬と同じで飲み合わせ次第で酷い毒にもなります。その実例が地下鉄でのテロ事件です。独学はお勧めできません。理論理屈ではなく、hasunohaのような読み物で仏教的な感性を身に付けることをお勧めします。
質問者からのお礼
>>大慈さん
返信ありがとうございます
書き方が悪かったかもしれませんが「仏陀が否定した有我説」の詳細についてです
要するに「非我説についてこう解釈してはいけないよ」と言う事でもあるかと思います
「我はないと言う事は五蘊がただ我として現れる・在ると言う事なんですね」という解釈も出来るので、恐らくその辺りの否定もかねて居たのではないかと思われます
ただ、その場合ここで語られる「我」ってなんぞ?と言うのも出てきて分かりにくかったのでお聞きしました
>>丹下覚元さん
五蘊に中心を立ててはいけない(我見)、五蘊の外に中心を立ててもいけない(我所見)、五蘊の中に中心を立ててはいけない
という戒めであると言う事でしょうか?
何か事実や真実を語っている言葉であると思っていましたが、その辺りスタートが違ったのでしょうか?
やっぱり混乱してきたと同時に問題が絞れてきたのでちょっと追加でこの件について新たに質問させていただこうと思います