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死後の世界とは苦しいものなのでしょうか

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先日祖父の十三回忌がありました。お坊さんにお経をあげていただいている時に奇妙な景色が頭の中に流れてきました。

どこか分からない場所を、お遍路さんが持つような長杖を支えにして祖父が歩いていました。祖父の顔は遺影よりも若く、少し苦しそうでした。

死後の世界とは苦しいものなのでしょうか。それとも供養が足りないから祖父は苦しんでいるのでしょうか。ただの幻覚ならいいのですが状況が状況なので気になります。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

生命の学び

人には「見る自分」(六根)と「見られる自分」(六境)があります。
難しい話は抜きにすると、要するにお祖父さまの身心の側に在ったお祖父さまと、あなたが受け取った(見たり聞いたり思ったりした)側に在るお祖父さま、2通りのお祖父さまがいらっしゃったわけです。

そうした時に、頭の中に流れてきたお祖父さまというのは、あの世のお祖父さまではなく、あくまでぎょうざ様が受け取った側のお祖父さまです。
供養が足りないとか苦しんでいるという考え方は間違いです。むしろあなたの心の中で「生死とは何かモヤモヤしている」とか、「死に対して潜在的な恐怖がある」といったことの現れかもしれませんね。

でも、それはライフステージの中で歩んでいくべき1つのステップです。それでいいんです。焦らないで下さい。
生命のことは、死別と誕生に触れることでしか、本当の意味では学べません。脳みそでどう解釈するかという話ではなく、まるで本能のスイッチがカチッとONになるかのように、知らず知らずの所で学んでいるんです。きっとお祖父さまは、最期に一番大切なことをあなたに教えて下さったのでしょうね。尊いことです。感謝の気持ちをもって、手を合わせてさしあげて下さい。

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曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouTuber「仏教・お寺ch 大慈」。 【現代日本仏教最大の課題のひとつはコミュニケーション不足】をミッションに10年以上、インターネット上で情報発信をしています。 YouTubeでは仏教の教えや読経だけでなく、お寺の真相やお坊さんの生活が分かる動画を配信しています。(リンクは↓のURL)

亡くなられた人で生きていた人はいない

これを機に死についてよく考えてみましょう。
「死」という事実と「死」について事実とは別にあなたの頭の中で思う・考えの世界。
人が死に恐怖するのは頭の中で「死」ということについてあれこれ考えを思いめぐらすからです。「死」という事実に次ぐ二次的な世界はみな想念の世界なのです。
死によって苦しむことを仏教においては死苦といいます。
それは自分の脳内セカンドワールドなのです。
あなたはまだおじい様の死そのものにきちんと出会っていないのかもしれません。
きちんと出会っていないとは頭の中で「ああなんじゃないか、こうなんじゃないか」と様々な妄想を描く世界です。導き先があなたの中で明確ならざる様子。
生きている人で「死んだことのある人・死の経験者」は誰もいません。
死後の世界がどうであるかということを思うのは生きている人でしょう。
ゆえに、この問題はあなたが亡くなられた方は今きっとこうなっているのではないだろうかというあなた自身の不安なのです。
目の前にないことを思い描くことは妄想です。
自分の死の事実は死ぬまで経験できません。
「死」が悪いわけでもありません。
「死」によって助かる世界もあり、死によって変化が起こり、世の中や経済が大きく動く事もあります。
我々人間たちは他の生物の死である「食」によって今の一呼吸「生」が成り立っております。
人が永遠に生き続けていたら、世界は人口爆発で資源と食料の奪い合いで戦争になるでしょう。
天命、寿命を全うされることは天地自然の道理です。
ですが、人として大事な精神は死しても今生きている私たちをより高い人間性に導いてくれる存在として敬い、祀るべきなのです。
死んだ。さようなら。それだけでは人間は動物と変わりません。
「死んだらおしまい」と終わりにすると亡き人も浮かばれず、後の人たちの学びにも恩にも恵みにもならないままとしたら人生は後先無しに今のことだけ楽しければいいという生き方になってしまいます。そういうのを野ざらしというのです。人間は過去の先人たちの恩恵によって今の生活が成り立っています。その関係性や恩を見出せてこそ人生は豊かになります。
どうぞ、おじいさんの死を終わりとせず、これを機縁としてあなた自身が人生史上、もっとも豊かで安らかな生き方を見出すためのきっかけになさってください。
仏教ではこれを菩提心と申します。
菩提心を発されますよう。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

死後の認識のありようについて

ぎょうざ様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

今世における我々の認識のありようと、死後における認識のありようは、色々な因縁(原因と条件)によって違うものとなって参ります。

私たち人間は、大慈様もおっしゃられていますように、六根・六識(眼耳鼻舌身意)による粗い意識での認識が主たるものとなりますが、死後においては、いったんは、六識・六根による粗い意識は止み、微細な意識による認識となった後に、また、次の赴き先においての境遇、姿、認識器官等によってもどのような認識となるのかが異なってくるものとなります。(もしも、再び人間界の世界に生じられれば、もちろん、私たちと同様の認識にはなり得ます)

その認識がどのようなものであるのかは、我々の概念では推し量れないところもあるため、一概にどうであると言えるものではないものの、できれば、確かなるご仏縁の下、浄土において、悟りへ向かって仏道を修せられることができているようにとして、功徳、供養を向けて参りたいものとなります。

川口英俊 合掌

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