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偽経と信心について

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大学で仏教の事を学んでいる真宗の信徒です。先生には質問しづらい内容ですのでここで質問させてください。
大学で四諦の教えや空の思想を知り、苦しみの生まれるプロセスを理解しました。
ただ私は意思が弱い凡夫ですので、渇愛煩悩を絶つために修行し自力で悟りを得られるような人間ではありません。
やはり阿弥陀仏の本願に縋るしかないと考えております。

しかしながら、偽経について学び、同時に観経が偽経である事を知ると疑いの心が生じてきました。
信じたいと思っているのですが、釈尊が説かれた教えではないものと知ってしまうと、阿弥陀仏は本当に自分を救ってくださるのかどうしても心配になってきます。
この心にどう折り合いをつければ良いでしょうか?


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

ぼくもその疑問に一度立ち止まりました。

PGさま

初めまして、hasunohaの井上広法です。

大学時代に先生から大乗仏教の経典が偽経であるものが多いと聞いたときにショックでしばらくご飯が喉を通らなかった苦い思い出があります。笑。

浄土三部経のなかでも特に「観無量寿経」はサンスクリット語版やチベット語版が見つかっておらず、中国で撰述された可能性が高いといいます。

学術的な事実をどうやって信仰心に結びつけるかというのは非常に難しいことだと若かりし頃、頭を抱えました。

そんな悩みを抱えながら、浄土学を専攻していました。

そして、その疑問を超えるには、長い時間が必要でした。

ぼくの結論は以下のとおりです。

仮に観経が中国撰述であったとしても、その撰述者は深い仏教理解によってこの経典を編纂されたと思います。

つまり、お釈迦様と同じベクトルでこの経典をまとめられたと考えるようになりました。

もちろん、仏教とはゴータマ・シッダールタの直説ということが重要でしょう。

しかし、ゴータマ・シッダールタを慕う後世の仏教者たちの言説も、ゴータマ・シッダールタと同じように重要であるということです。

名もなき仏教者たちの声が、いままで伝わっている経典に込められているとも言えます。

つまり、仏教とは釈尊が発見した真理を原点に常に進化しているということです。

とくにそれが顕著なのが、大乗仏教であるといえます。

ぼくはそう考えることによって、仏教観が変わりました。

いまでは、より偽経色の強いとされる「父母恩重経」も有難く読んでいます。

そんな感じです。

合掌

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hasunoha共同代表 浄土宗光琳寺 副住職 佛教大学で浄土学を専攻したのち、東京学芸大学で臨床心理学を専攻しグリーフケアの観点から『遺族における法事の心理的役割の検討』を執筆。 科学的に心の仕組みを学んだ僧侶として活動し、東日本大震災を契機に「お坊さんが答えるQ&Aサービスhasunoha」を立ち上げる。 また心理学、特にポジティブ心理学の知見を参考にワークショップ「お坊さんのハピネストレーニング」を毎月開催している。 史上初のお坊さんバラエティ番組「ぶっちゃけ寺」の立ち上げにかかわるとともに同番組をはじめとした様々なテレビやラジオなどのメディアにも多数出演中。

外に偽経があるんじゃない

人間は悟れる人はお経でなくても悟れるものです。
庭掃除をしていて竹に石コロがカツンと当たって大悟した香厳和尚。
咳して血交じりの痰を吐いて大悟した盤珪禅師。
経典や真の師匠がいなくても本当に悟り抜ける人も、実際に類まれとはいえ、いるものです。
私も父母恩重経などの偽経とされるものを「ナンダ、偽経だったんかい」と、一時期嫌いになったものです。
ですが、正しい法の眼を以ってそれを読めば、そのお経の持つ力だけは純粋に摂取できるものです。
ディズニーのアニメや日本のアニメだって、偽経といえば偽経ですわいの。
ところが、こちら側に正しい法を見極める眼があれば、日本のアニメですらネット情報ですら、活きた経典、活きた600の金文となる。
学者さんたちが「これは偽経だ、これは(三)四法印が説かれているから真の経だ」と分類なさる。
たとえそこに四法印が説かれている経典であっても、読んだ当の本人がいくら読んでも悟れないのは、偽経であるか、偽経ではないからではない。
自らの我見によって、ものを枉げて読んでいれば、それこそが偽経以上の偽マナコ。
賢者は偽経であってもそこから大悟ある醍醐を抽出する。
この世から一切の経巻が消え去っても、天地山河という経典に偽経真経の隔てはない。
目前は常に如是の経が転ぜられている。
そこを読まずして、経典は読むことはできない。読むこと「が」できない。
文字を読もうとするマナコがすでに、経典をピックアップする頭脳モードではないからです。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

「最清浄法界等流」

PG様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

正直なところ、釈尊は、教えを文字で残すことを許されなかったため、後世に文字にて表されて伝えられている経典というものは、誤解を恐れずに申せば、釈尊のそのままの真意なる教えとして捉えて良いものかどうかは、非常に疑わしく、また、文字で表されたものは、釈尊の教えでないとするならば、全て「偽経」と言ってしまっても、ある意味において過言ではありません。

なぜ、釈尊は、教えを文字で残すことを許されなかったのか・・

拙私見ですが、「文字化→概念の固定化→実体視→執着→迷い苦しみ」ということがあるからではないかと存じております。

また、文字化の否定のことを「言語道断」、「戯論寂滅」、「離戯論」、「離言真如」などと概念化してしまっても同様なことになりかねず、やはり、宜しくないものとなってしまいます。

しかし、それでは、一体どのようにして釈尊の教え、仏教を修学・修習していくべきであるのか、となりますと、如来が不在である以上、やはり、私たちは経典を頼りにしていく他に、その教えを学び修していく術はないのであります。

もちろん、経典は、何も根拠のない教えというわけではありません。八万四千とも言われる釈尊の善巧方便による無数の教えにおける、ある一面であったり、要約や公約されたものであったりと、それぞれの経典における方便的な立場があると考えることができます。

アサンガ大師は「摂大乗論」にて、「最清浄法界等流」というお言葉を使われておりますが、まさに、清浄なる真理の世界から流れ出ている教えであるとして、経典の内容について、慎重に吟味して扱う必要があると存じております。

問題は、では、どの経典やその中の教えが、(自分やそれぞれの衆生に対して)頼りになり、あるいは頼りとすべきかということについては、それも慎重に判断していくことが必要となります。このことにつきましては、下記の拙回答もご参照を頂けましたらと存じます。

問い「お経の種類」
http://goo.gl/jMyf57

問い「龍樹と唯識」
http://goo.gl/GnWUpc

川口英俊 合掌

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最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断しています。 https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k

仏の慈悲へ共感。念仏で白道上に瞬間移動

凡夫には、怒りや悲しみの煩悩を滅するのは難しいですね。
しかし、煩悩を制御することは、ある程度可能です。
慈悲の心が生じているときは、怒りがおさまるのです。
経典に説かれている阿弥陀仏の平等の慈悲に共感することは、実は、怒りや悲しみを制御することにつながるのです。
なので、たとえお経に書かれた話がフィクションでも、フィクションに共感して心に善い影響が出れば、それは無駄ではないと思います。
善導大師の説いた二河白道の比喩がありますね。図画にもされています。往生極楽をめざす白い道の両脇に、怒りの炎の河と、欲の水の河があります。
私は、人の心が怒りや欲の波にさらわれた場合でも、念仏を思い出せば、瞬時に心が白道の上に移動可能だと考えます。波にさらわれては念仏、さらわれては念仏で、白道にもどる生活は、経典がフィクションでも有効です。

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がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

質問者からのお礼

回答ありがとうございます。
善導大師をはじめ、過去には様々な優れた仏教者の方が観経ひいては偽経を編纂し、観じられたという事実を再認識出来ました。
釈尊が直接説かれた教えは重要ですが、大切なのは経典に込められた想いを知り、有り難く読ませて頂くと言う事ですね。
この事を胸に置きながら、日々疑わない心を育てて行きたいと思います。ありがとうございました!

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