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してはいけないことをしてしまった

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始めまして、みなと申します。
昨日、私はしてはいけないことをしてしまいました。
詳しく書けずに申し訳ありません。
きちんと確認していればこんな事にはなっていなかったはずなのです。

どうしてこんな事をしてしまったのかと考えると夜も寝れませんでした。
このまま毎日毎日この気持ちに苦しめられるのかと考えると、生きていくのが嫌になりました。

もう生きていくのが嫌です。
もう死ぬしかないのでしょうか。
助けてください。


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お坊さんからの回答 5件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

大丈夫です。
あなたが「してしまったことの事実」は変えられませんが、
その事に対する「想い方」を変えることができます。
ある程度の事ならばとり戻せますよ。
まずはあなたの苦しさを無くす事から始めてみましょう。
このサイトは別にあなたの素性は知られませんし、誰も知ろうとしません。
僧侶には守秘義務もあります。
あなたの秘密は守られます。警察沙汰問題であっても、私どもは通報しません。
まずは誰かにあなたのしてしまったことをうち明かすことです。
こっちはあなたがどこの誰であるかも知りませんし、知ることもできないのです。
うち明かせる人は周りの人ではない方がイイでしょう。
近くのお寺さんや、我々僧侶でお役に立てれば懺悔なさってください。
仏教では懺悔と書いて、さんげ と 読みます。
色々私も人に迷惑を散々かけてきてしまいましたよ。
大切なのは自責の念で苦しむよりは、今後の人生なのです。
その一歩を踏み出す為にも、まずは自分を責めて苦しむことをやめて、心うちを少しでも明かしてください。ご連絡がないので心配しております。お返事をお待ちいたしております。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

この世に、死ぬほどの事はない

みなさんへ

何があったのか分かりませんが、想像するに、意に反して、何か大変な事をしてしまったのでしょう。でもね、少し注意不足だったかも知れませんが、みなさんが敢えてそうしようと思ったわけではないので不可抗力です。「もう生きていくのが嫌です。」というお気持ちは分かりますが、 「もう死ぬしかないのでしょうか。」という事は絶対に無いです。
人が生きて行く上で、後悔する気持ちと、それに対して反省し懺悔(さんげ)する気持ちが大切です。
文章を読んでいると、みなさんは、十分反省しているようなので、その気持ちを大切に、詫びるのか謝るのか反省するのかは分かりませんが、「生きる」を選択される事を切に望みます。

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昭和43年、奈良県葛城市生まれ。子授け寺浄願寺の住職、鷲尾隆仁。 日頃は、法務に忙殺されていますが、 出来るだけ、お檀家さんや参詣者に寄り添い、愚痴や悩み相談される人になりたいと、常日頃思っております。 また、僧侶のかたわら、家事民事調停委員もしており、世間のドロドロにまみれております(>_<)

死ぬしかない訳ではない。

こんばんは。

詳しくは話せないけど、
辛い気持ちなんですね。
抱えまずに、このhasunohaで言ってくれてありがとうございます。

何かを手放せば、環境は変わる。
見方を変えれば見える世界も変わる。

諸行無常。
10年も20年も続けることはかなり大変です。

一時の感情で思うことはありましょうが、
落ち着いて考えることも大事にしてください。

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hasunohaに出会えた私は幸せ者です。カニとおろし蕎麦と水ようかんが美味しい地方の町のお寺にいます。人混みは苦手、都会のイルミネーションやサイネージはまぶしすぎる。だけど、ここhasunohaでの対話があるから孤独じゃない。ありがとう。
社会福祉士、公認心理師として社会では働いてます。事業や組織を背負うと言えないこともあるけど、仏教を背負うと語る内容も変わります。悩みがなくても話してみたいときは相談ください

どんな過ちを犯しても、死ぬ必要はない。やり直せる。

何をしてしまったのか分かりませんが、どんな過ちをおかしても、そこに気がついたところから、人はやり直せます。
法律的なことに触れることなら、償う必要はありかもしれません。
しかし、そうでないなら、誠心誠意謝ればいいでしょう。
仏教には救われる道があります。それを学び実践することです。
是非禅を学んでいただきたいと思います。

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個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

事実は変わらないがそれからは変えられる

質問拝見させていただきました

してしまった、ことを変えることは出来ません、過去のことです、どうしようもありません。
しかしみなさんはその過ちを犯すことで2つのことに気付けました。

1つは「してはいけない」ことをしてしまった、ということ
2つは「きちんと確認していればこうならなかった」ということ

それだけ深く悔いて反省しておられるのならば二度と同じ過ちは犯されることはないでしょう。

あとはしてしまった内容にもよりますが誰かに謝るであるとか人に対してのことならやることは決まっています。
「深く反省し、真摯に向き合って頭を下げることです」

内容が分からないのである程度の予想や、的外れになってしまい申し訳ありません。

生きていくのが辛くて情けなくなることは誰にでもあります、私にもあります、非常に苦しいことばかりです
死ぬことを考えたことが無いかと言えばそんなことはありません、ですが死ぬしかない、などという人は居ません。
たとえどのような極悪人であったとしても死ぬしかない、ということはありません。生きて業を背負い続ける方が余程苦しいのですから。

ですからみなさんがもし本当にとんでもないことをしてしまったと思っているのであれば真摯に対応して業を背負い続けてください、それがみなさんの責任です。

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ