瞑想について
こんばんは。前回はたくさんのご回答有難うございました。また質問よろしくお願い致します。
瞑想の仕方についてお教え頂きたいです。
心は何に集中していたらよいのでしょうか?雑念がすぐに出てきて嫌なことが浮かんだり、しょうもない事が浮かんできそうです。
時間はどれくらいするものなのでしょうか?1回1時間くらいなのでしょうか?
宗派によってもやり方が異なるのでしょうか?
過去のご回答の中に答えがあったかもしれませんが、今一度よろしくお願いします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
集中する必要はありません
「集中する」ということは「集中する」というワンアクションを握り続けることになるのです。坐禅・ZENメディテーションはそれはしません。マスコミはそういうものだと誤解して広めていますが嘘800です。
あまりお勧めしない坐禅スタイルをざっくり理由とともに記しておきますのでご参考まで。
少々辛口ですが、それが一番近道なのでご容赦ください。
①無心・無我になろうとする坐禅。…最初から自分の中で無心やら無我とやらを自分のイメージで描いている為、自分が主役になったままで自我意識が消えないのです。
狙っている所に当てはまらないと失敗感、不満足が生ずるので長続きしません。最初からいわゆる瞑想っぽいコトやねらいを持たないことです。
②只管打坐にこだわった坐禅。只管打坐とは「ただ坐ればいい」ということではなく「只管に打坐し心身脱落すべし」と続きます。悟りがちゃんとした目的です。
事実に意識を向け続けることで時間的には数分で思いが病まった状態を体感することができるでしょう。
③数を数える坐禅。ぶっちゃけ数を数えているだけです。だんだん羊と変わらなくなります。
数を数えるという自分の意識のアクションが常に働き続けるため事実ではなく、イメージの方が主流となりやすいです。気が付くと数を数えて終わっています。何のための息数えであるべきなのかを良く問いただしてからのぞむべきです。
④考える坐禅。考えるならロダンの彫刻スタイルが一番いいでしょう。考えるのは悪魔で考え事で坐禅ではありません。
⑤期待する坐禅。なにか功徳やおこぼれにあずかろうとしている果報は寝て待てスタイル。それが坐禅のメインであれば宗教はいりません。実際にものすごい功徳になりましょう。
結論は、時間の長さは関係ありません。
大切なのは、心の中でアクションになる事を何もしないことです。
何もしない、ということも念じたらそれはアクションです。
何かを念じたり、唱えたりすれば、それもマインド・アクションです。
水の水面に生まれた波紋を消そうと、手を入れれば再び波がたちます。
アクションを何もしないからこそ水面の波は静まるのです。
いろいろな瞑想法があります。
私も本山の修行中、2年ほど毎朝1時間座禅を組んでいました。
しかしなかなか「無我の境地」みたいな世界は感じられませんでした。
瞑想というと座禅というのがまず思い浮かぶと思います。
しかし、心を落ち着かせて体と対話するという方法と
考えればいろんな形があります。
立って瞑想をする立禅、横になって瞑想をする臥禅。
マラソン選手とか走っているとだんだん気持ちよくなっていくというのを聞きます。
「マラソン・ハイ」とか呼ばれる物です。これも一種の瞑想法です。
走ることによって体の感覚がなくなり心と会話しているのです。
私は10年ほどヨガをやっています。
そのなかで「死体のポーズ」が好きです。
いろんなヨガのポーズで1時間、体をほぐし、
その後に行う「死体のポーズ」は体の感覚を忘れ
意識の中に入りやすくなります。
その人に合った瞑想法が有ると思います。
みちこさんに合った瞑想法を探して下さい。
「空観」
みちこ様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
拙生、既に瞑想、坐禅修行を集中的に行う機会からは離れておりまして、あまり申せるほどのこともございませんが、この瞑想、仏教においては主に「禅定」とも申しますが、お釈迦様が菩提樹下にて、この「禅定」により最終的に悟りを開かれたことから、悟りを目指すために欠かせない大切な実践として、仏道修行の中でも重視されるべきこととなります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/禅定
その方法については、上座部(根本・初期)仏教から大乗仏教各派のものまで、下記のウィキペディア説明内にも少しございますように幅広くございます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/瞑想
拙生は、丹下様ほど長く禅専門僧堂での修行をしておりませんので、あまり生意気なことも申せませんが、拙生の場合、心を落ち着かせたり、集中したりするための「止」の禅定よりも、現在は特に「観」の禅定、それも「空」についての「観」を重視して、場所や状態、姿勢を問わずに、日中の僅かな間において、一日に数回、この「空」について観ずる実践を行っております。
なぜ「空」を観ずるのかと申しますと、悪い行い(悪業・カルマ)に繋がる「煩悩」、その根本となる「無明」を撃ち破るのに効果的となる智慧が「空の理解」であるからでございます。できるだけ「空の理解」を心に馴染ませるようにと心掛けております。もちろん、まだまだの未熟ではございますが・・
いずれにしましても、仏教においては、「戒・定・慧」の三学をバランス良く修める必要がございます。そのことにつきましては、下記の拙回答も参考にして頂けましたらと存じております。
問い「お坊さんになるには修行がいりますか」
http://hasunoha.jp/questions/70
また、既に御礼にもございますように、確かなる先生、師の指導の下で進められるのがやはり良いかとは存じます。
川口英俊 合掌
まちまちです
はい。宗派により様々です。
瞑想はヨガの一分野ですが、実践や理論は実に多岐に亘っていると思います。ちなみにヨガを最初に日本に伝えたのは弘法大師空海上人だと言われます。当時(平安時代)は瑜伽(ユガ)と呼びました。
真言宗の場合、阿字観(あじかん)というものがあり、数息観(すそくかん)、阿息観(あそくかん)、月輪観(がちりんかん)などの段階を経て、阿字観の修行に入ります。
心を無にするのではなく、心をどんどん広げるという感覚でしょうか。
詳細はここでは省きます。
しょうもないことが浮かんで結構です。浮かばない人は、きっと既に瞑想をする必要が無い人ですから。あせらず徐々にまいりましょう。
時間について言えば恐らく「みちこさんの好きなだけ」で間違いありません。ちなみに私の場合は10分とか15分です。そしてダライラマ法王は毎日数時間だそうです。
ともあれ、自己流ではなく、どこか座禅や観法をしているお寺に出向いて、指導を仰ぐことをおすすめいたします。
質問者からのお礼
ご回答ありがとうございます。なんだか自己流は難しそうなので、近くの参禅できるお寺さんを探してみます。
さらにご回答ありがとうございます。感謝いたします。瞑想中とは、心と体がどういう状態のことをいうのでしょうか・・・。難しいな・・。