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祖母の死が悲しくない自分

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初めて質問させていただきます。

数年前、母方の祖母が事故で亡くなりました。

幼い頃から、とても良くしてくれて大好きな祖母だったのですが、葬儀の際まったく悲しいという感情がわきませんでした。

周りの親戚や、私の兄弟たちは、みんな涙を流し悲しんでいるのに、私はその光景を他人事のように見ていました。

そんな自分が怖く、また祖母にたいして申し訳なく思っています。

私はこのまま普通に生活をおくっていってもいいのでしょうか。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

実感があって涙が出る

悲しむことは義務ではありません、たとえ涙が出なかったとしても普通の生活を送ってはだめということになるかというとそんなことはありません
祖母に対する申し訳ないという気持ち、一応心の片隅でいいので持っておいてください

それは何故かと申しますと今はおそらく祖母が亡くなったという実感がKenさんの中に定着していないのかもしれません
今後ふとしたきっかけで祖母のことを思い出すことがあると思います、もしかするとその時にパズルのピースが丁度嵌まるようにあなたの心に実感が生まれるかもしれません、おそらくそのときあなたは涙を流せることと思います。
もしそうであったならそのときは遠慮なくそれまでの分思い切り泣けばいいのです、なので今泣かなくてもそれは悪いことではありません。

私も去年祖父を亡くしました。
3年ほど会ってはいませんでしたがお正月などに家に行くたびに家庭内麻雀でコミュニケーションしたり強面ではありましたが大好きでした。
亡くなってすぐは涙も出ず、私も複雑な心境でした、3年会って無かったからなのか、自分が冷たいだけなのか、そう考えていました。
今年の正月に3年ぶりに家に行きました、祖父は居ませんでした。
祖父の部屋は綺麗に片づけられ残っているのは祖母とあっちこっちに行った旅行のアルバムだけ、本当に綺麗なものでした。
庭いっぱいに育てていた祖父の趣味の植物もすべて無くなり、畑に変わっていました。
私も祖父と会わない間に僧侶となりましたので仏壇の前に座ってお経をあげようと思った瞬間、涙が溢れ出しました、そこで私は初めて祖父がお浄土へ往ったのだと実感したのです。

だからもし貴方が今後実感を伴って涙を流すときがくればそのときは思い切り泣いてください、涙はそのときはまで取っておいてください

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涙は強要されるものではない

よく、最近卒業式や結婚式、葬儀などの場面や映画やドラマなどを見て「泣けた」といって得意げに話している人をテレビなどで目にします。

人前で「泣けた」ことを自慢のように言います。さも自分は良い人だろ。と言わんばかりに。
逆に涙を流さないと、つまらない、冷たい奴だといわれる。

変な話ですよね。

涙は自然と零れ落ちるもの。「泣ける」の言葉の裏には「泣きたい」が隠されていて、そこに意図的なものを感じます。
涙を流すかどうかは問題ではない。悲しく感じるかどうかは関係ない。ネバナラナイはない。ただ、そのようであったということにすぎないのです。
あなたがおばあちゃんから学んだことをあなたの人生の中でどのように生かすかということに尽きるのでしょう。それが供養です。

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個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

関わりの深さが涙の

直接的にあまり関わりがなかったならばいくら肉身と言えども涙が出ないものです。
ですが、いつかあなたにとって「祖母とは」を疑問にする日がやってきます。
自分をこの世に存在させてくれた人であることには変わりないものです。
人が人間性を追求すると、どうしても避けて通れないのが父母、祖父母、先祖。
その人たちと自分との関わり、関係性を通じて、あなたに生まれる心があります。
その心は、今は何も名づけません。
ですが、その心があると人間はあったかい。
愛にあふれる。優しくなれる。
そういう人間になれます。
そういう心がいっぱいある人がこのサイトを立ち上げました。
今日はライブドアのトップページにニュースとして紹介され、これからも多くの人の苦しみを救う、あったかい、やさしい心として、世の中にやさしさが広まっていく事でしょう。
あなたにもそういう心が眠っています。
手を合わせてもう一度、あばあちゃんとお母さんの関わり、お婆ちゃんとお父さんとの関わり、お婆ちゃんとあなたとの関わりを感じ取ってみてください。
ご冥福をお祈りいたしますとともに、あなたの中に「その心」が芽生え、いつか花咲きますように。
その為の心の栄養として、この蓮の葉、hasunohaで養分を吸収していってください。
合掌。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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