仏教は宗教ではありません
12月5日付の新聞報道にアインシュタインの手紙が競売に付され高額で落札されたとの記事がありました。
その手紙に宗教の神に対する否定的な見解が示されていました。
仏教は神がいないことで、宗教ではないと言えます。
仏教の基本は真理と論理による宇宙の真実が語られています。
真実とは、宗教の信仰の有無や宗教の種別に関係なく、すべての人に等しく適用されるものです。
真実の中身は、宇宙のすべてが空で構成され(色即是空、諸法空相)、現実の世界は空が物質に変化したものである(空即是色、諸行無常)と説明しています。
そして論理(縁起の理法)により、身体はその構造が複雑で故障しやすく死に到りますが、構造の簡単な心は死ぬ要因ががなく、通常の心境ではいつまでも生き続けます(輪廻転生)。
涅槃(心を空に戻す)に依る以外に四苦から逃れることが出来ないと言う、瞑想から得た真実の悟りをすべての人に知ってもらう為に、仏教として広めたのです。
心境のレベルによって、涅槃を求める方法が多岐にわたるため、宗派が分かれたと思います。
アインシュタインも、深い洞察でその見解をえたのではないでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
仏教は間違いなく宗教です。
何故なら宗教という言葉は本来、仏教用語だからです。古い経典にも見られる単語です。
仏教が宗教ではないのではなく、20世紀にreligionの訳語に宗教を当ててから『宗教という言葉のイメージが変わってしまった』のです。
本来の宗教の意味は「教え」です。
このような事こそを後の世代の方がたに伝えてあげて下さい。
追記
仏教には神がいます。天部です。天部とは、インドにおいてはヴェーダの神々であり、日の本においては八百万の神々です。
>真言(まこと)をかたり
いかることなく
乞われなば
持つものよし少なくとも
おのれのすべてを与うべし
この三事によりてこそ
ひとひとは神々に
近づくを得ん
(友松訳『発句経』224)
これが原始経典のお釈迦さまの言葉です。確かに神への信仰は仏教の中枢ではありません。しかしお釈迦さまはこの偈に限らず何度も何度も神々に言及しています。
仏教の魅力は『懐の広さ』であり、仏教の特色は『中道』です。神を盲信するか全否定するかというような両極端の発想はお釈迦さまの教えに最も反する態度です。
そして『懐の広さ』ゆえに『時に信仰を否定し、時に信仰を勧めて相手の目線に合わせて教えを説かれた』のがお釈迦さまの『対機説法』です。そしてその延長線上が宗派です。
その中で「お釈迦さまは神を否定した。肯定する人はお釈迦さまの教えを歪めている」と一部分だけを切り取ってパッチワークする学び方が一番、何よりもお釈迦さまの教えを歪める学び方です。
残念ながら、そうやって批判さえしていれば格好いいという風潮が、20世紀の後半に流行してしまったのですけれども…。残念ですが、今、所有していらっしゃる本は全て処分なさったほうが良いです。末法の産物です。
「自灯明」
来生様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
確かに仏教では、他の宗教と違っている明確な点が幾つもあります。創造主の否定、空の見解など。
更に仏教は、ただ信仰するだけの教えでもなく、「自灯明」とも申しますように、己が実際にその道、仏道を歩まなければならないのであります。
よくダライ・ラマ法王様もご法話にておっしゃられておりますように、「師の教えを、ただ尊敬だけをもって受け入れるべきではなく、金細工師が、その扱っている金が本物か偽物か、その金を焼いて、切って、磨くことをもって慎重に吟味するように、そのようにして師の教えも受け入れていくべきである」として、しっかりと一つ一つの教えを批判的、合理的、論理的に検証しつつ、得心して進めて参りたいものとなります。
川口英俊 合掌
追記 宗(むね)とする教え
「宗教」という言葉は、宗とする教えという言葉であり、元々は仏教をさす言葉だったと聞いた記憶があります。
信仰対象を崇めるような教えの宗教もあれば、真理の探求や悟りを目指した修行をする宗教もあるということでしょうね。
追記9日(日)
失礼ながら、
お礼コメント欄を拝見していると最初の質問からテーマがそれてきているように思われます。
とても興味深い内容で、もったいないので、
新しい質問を立てられてはどうでしょうか?
英語の「宗教」と日本語の「宗教」は意味が違いますからね。なので西洋の人が「仏教は宗教ではない」というのも当然ですよ。英語の「宗教」は「神との結びつき」という意味ですからね。
追記
横やりを入れるようで申し訳ないのですが、少しだけ話すことをお許しください。大慈さんへのお返事の中で「仏教の根本である「輪廻転生」も日本仏教はその否定も許されているようです。」とあるのですが、輪廻転生は仏教の根本ではありません。仏教以前からあるバラモン教の思想になります。
お釈迦さまは対機説法でしたから、相手の苦しみや悩みを取り除くために、輪廻転生の話を用いて説いた方がいい相手には用いて説き、輪廻転生の話を用いずに説いた方がいい相手には用いずに説いたのですね。
お釈迦さまにとって大切なことは、目の前の相手を苦しみや悩みや絶望から救い、前向きに生きてもらうことだったのだろう、と私は思います。
追記
バラモン教に否定的でなければそもそも仏教は生まれていませんよ。お釈迦さまもバラモン教のままでよかったのですから。お釈迦さまはバラモン教を全てではありませんが、否定しています。例えばカースト制度に対しても平等を唱えています。しかし単に否定しては、当時バラモン教という先入観があった人々には誰も話を聞いてくれませんね。なので、真のバラモンとはこういう人なのです、と人々に分かりやすく仏教を説いたのです。
また、見込みのありそうな人には、来世は無記として、修行することを勧めていますね。
輪廻転生を否定したら死ぬしかないとお思いのようですが、そうではなく、お釈迦さまは基本的に、生きている間に修行して覚りなさい、というスタンスですよ。ただ、それができそうにない人々には輪廻転生など来世の話もして、より良き道を歩めるように説いているのですね。
つまり、相手によってあえて輪廻転生を説く場合もあるし、あえて説か無い場合もあるということです。お釈迦さまの狙いはその更に先にあるのだと思いますよ。
質問者からのお礼
願誉浄史 様 ご指摘を有難うございます。
信仰を伴うものが宗教と思っていましたので、思い違いをしました。
「仏教の教えの中身」と改題したいと思います。
(改題の仕方が判りませんので取り合えずここだけの改題です)
大慈様 ご回答を有難うございます。
願誉浄史 様からも同じご指摘を頂きましたので改題したいと思います。
川口 英俊 様 ご回答を有難うございます。
確かに釈尊の御遺言が「自燈明 法燈明」でした。
大忍貫道 様 ご回答を有難うございます。
色々ご指導を受けますのに、気を悪くすることはありませんのでお気遣いなく。
私は初期経典は全く知らず、大乗経典の一部だけの知識しかありません。
般若経に勝る初期経典とはどんな内容の経典でしょうか?
大変興味深いです。
三宅 聖章 様 ご回答を有難うございます。
英語ではあながち間違いでは無かったのですね。
でもここでは日本語の「宗教」の意味で話すべきだったので、誤解でした。
大慈 様 追記を有難うございます。
神がいないとは、神を信仰の中心に置いていないという意味の積りでした。
梵天勧請と言う逸話もありますから、あの世では何でもありと思っています。
中道を前面に押し出すのは危険だと思います。人間は本能に心地よい思考を優先する傾向にあります。
中道を根拠に正論に反対することが多いようです。
釈尊は「如来は真実を語る」と断言しています。
如来の言葉も中道と言う理由で意訳することが日本仏教では多く見られます。
例えば「色即是空」は忠実に訳しても「空即是色」は意訳で語句に忠実ではありません。
中道で総て許されるのでしょうか?
仏教の根本である「輪廻転生」も日本仏教はその否定も許されているようです。
少なくとも、釈尊の言葉は、意訳なしに忠実に解釈すべきだと思います。
例えば般若心経に「彼岸に往けり」と言う記述がありますが、彼岸が実在しなければ「往けり」と過去形で言う筈がないと思います。
三宅 聖章 様 追記を有難うございます。
一番紛れやすい点をついて頂き感謝します。
輪廻転生は確かにバラモン教の思想ですが、釈尊が仏教を開いたときにこの思想を批判したことはありません。
もしバラモン教の思想が間違いであったならば、その間違いを空と同じ時間を費やして反論したはずです。
何故ならその当時のインド社会は輪廻転生が常識であったからです。
釈尊説教の多くは弟子に対する問答です。常識との違いには詳細な説教が行われますが、常識的な話は一切語られていません。
従って経文の中で、輪廻転生の文字を見つけることが困難です。
前回は「前世、現世」という言葉を金剛般若経で見つけたので、問題を提起したつもりです。
横道にそれますが、般若心経でもそのことが窺えます。
「諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減・・・・」の前に「諸法実相 生滅 垢浄 増減・・・・」があるべきですが、それすら常識ですから省略され、誤解の元になっています。
本題に戻って、般若心経の「照見五蘊皆空 度一切苦厄」で四苦から解放されたとあります。
現在我々は既に生を享けていますから、絶対に四苦を逃れることはできません。
釈尊も四苦を逃れず、病死しました。
いつ四苦から解放されるかと言うと、次の生を防ぐしかありません。
だから釈尊が涅槃を勧め、我々は涅槃を求めて修行しなければなりません。
次の生があるということは、輪廻転生が仏教の基本で無ければ、仏教は成立しません。
即ち輪廻転生を否定するということは、死即涅槃ですから、仏教を学ぶ必要はありません。
三宅 聖章 様 追記 (2)を有難うございます。
三宅 聖章 様も輪廻転生を否定しながら、釈尊がその話をしていると仰っているではありませんか。
釈尊は真実しか語らないと自ら断言しています。
たとえ話で輪廻転生を語ることはありません。
生きている間に覚る人が何人いるとお思いですか?
99%よりはるかに多くの人が輪廻転生するのです。
願誉浄史 様
追記9日(日) を有難うございます。
衆生の暴論に興味をお持ちくださって恐縮しています。
あとは釈尊の言行から推定する程度ですが、お勧めに従って質問を立ててみましょう。