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違い

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有り難し有り難し 19

一切皆苦と認める事と、諦める(もう希望や見込みがないと思ってやめる。断念する。という意味)事の違いは何ですか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

「一切皆苦」というのは、この世が「諸行無常」であり「諸法無我」である事を受け止める事が出来ない状態です。私たちには様々な執着や貪欲があり簡単に受け止める事が出来ないのです。ですから様々な苦しみがある、つまり「一切皆苦」なのです。
「一切皆苦」を認めるとは、その原因が「諸行無常」と「諸法無我」であると受け止められない自分自身にあるという事を知ることです。
それは仏道における大きな前進であります。
「諸行無常」と「諸法無我」を受け止め始める第一歩であります。
それに対して「断念する」とは、もう一歩も進まないということですから、意味が180度違います。
私はこのように思います。

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おきもち

私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答しています...
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「苦」は「ドゥッカ」

ご相談拝読しました。シンプルですが中々難しいご質問であると思います。

「一切皆苦」は「一切」=「全て」が「苦」であるということですが、どうしてもこの「苦」が「苦しい・辛い」という意味合いに印象として引っ張られてしまうかもしれません。

しかしもともとこの「苦」はパーリ語やサンスクリット語のドゥッカ(巴: dukkha、梵: duḥkha)が原語です。

ドゥッカには「苦しい」という意味もあるようですが、より深くは「(無常であるがゆえの)不満足・不完全(ゆえに思い通りにならない)」ということのようです。

つまりは「苦しい・辛い」という「評価・感情」というよりは、我々の存在の「事実」なのですね。「諸法無我」「諸行無常」であるがゆえに「一切皆ドゥッカ」ということです。

もう希望や見込みがないと思ってやめるたり断念する意味での「諦める」は、私たちの「評価・感情」によって条件づけられた意思決定・態度ではないでしょうか。

しかし…こう説明はしても、実際には真理に暗い凡夫である私たちにとってはそう違いはないようなものなのかもしれません。

ですが、「評価・感情」のままにしかとらえられない私たちでも、その存在の「事実」を「法(教え)」に知らせていただけるところに「評価・感情」に振り回されない救いの道が開けてくるようにも思います。

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おきもち

はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
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良い人・優しい人が損する理由

YouTubeのオススメに「良い人・優しい人が損する理由はこれです」みたいな動画があったので、とりあえず観てみました。その動画には「ブッダの教え」というサブタイトルが付けられていました。 優しさと思いやりが、いいように利用され苦しむ主人公の話でした。 その後、主人公が見つけた答えは、 ①「自己尊重と他者への尊重のバランス(自分自身と他人の間に健全な境界線を引く)」 ②「自分の気持ちや考えを尊重してもらえない関係は健康的ではないと理解しそのような関係とは距離を置く」 ③「支援や協力が真に価値を持つ場合にのみそれらを提供するようにする」 というものでした。 私にはとても良い話に感じましたが「我を無くす」から遠のいてるようにも見えて、この話をどこまで鵜呑みにしていいのか迷っています。 「ブッダの教え」とありますが、この動画に出てくる登場人物名や逸話をネットで検索してもそれらしいソースが見つかりませんでした。 (生きにくさを抱えた現代人向けの創作?) ここでお坊様方にお聞きしたいのは①②③は仏教的に見て、実行しても大丈夫な内容でしょうか。 またお坊様方の考えなどもお聞かせ頂けたらと思います。 よろしくお願いします。 補足です。 私は優しさ・善良さとは程遠い人間ですが、周りではよく聞く話だったので、このテーマに関心がありました。

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