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違い

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有り難し有り難し 21

一切皆苦と認める事と、諦める(もう希望や見込みがないと思ってやめる。断念する。という意味)事の違いは何ですか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

「一切皆苦」というのは、この世が「諸行無常」であり「諸法無我」である事を受け止める事が出来ない状態です。私たちには様々な執着や貪欲があり簡単に受け止める事が出来ないのです。ですから様々な苦しみがある、つまり「一切皆苦」なのです。
「一切皆苦」を認めるとは、その原因が「諸行無常」と「諸法無我」であると受け止められない自分自身にあるという事を知ることです。
それは仏道における大きな前進であります。
「諸行無常」と「諸法無我」を受け止め始める第一歩であります。
それに対して「断念する」とは、もう一歩も進まないということですから、意味が180度違います。
私はこのように思います。

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私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答していますが、無知未熟ゆえに質問を読ませていただくことしかできないことも多々ありますがお許しください。 回答は私個人の意見や解釈もあり、場合によっては浄土宗の教義とは少し異なることもあるということをご了承ください。 また、寺の紹介ページに電話相談についても紹介していますのでどなたでも気兼ねなくご利用ください。 ハスノハのお坊さんがもっと増えますように。 合掌 南無阿弥陀仏

「苦」は「ドゥッカ」

ご相談拝読しました。シンプルですが中々難しいご質問であると思います。

「一切皆苦」は「一切」=「全て」が「苦」であるということですが、どうしてもこの「苦」が「苦しい・辛い」という意味合いに印象として引っ張られてしまうかもしれません。

しかしもともとこの「苦」はパーリ語やサンスクリット語のドゥッカ(巴: dukkha、梵: duḥkha)が原語です。

ドゥッカには「苦しい」という意味もあるようですが、より深くは「(無常であるがゆえの)不満足・不完全(ゆえに思い通りにならない)」ということのようです。

つまりは「苦しい・辛い」という「評価・感情」というよりは、我々の存在の「事実」なのですね。「諸法無我」「諸行無常」であるがゆえに「一切皆ドゥッカ」ということです。

もう希望や見込みがないと思ってやめるたり断念する意味での「諦める」は、私たちの「評価・感情」によって条件づけられた意思決定・態度ではないでしょうか。

しかし…こう説明はしても、実際には真理に暗い凡夫である私たちにとってはそう違いはないようなものなのかもしれません。

ですが、「評価・感情」のままにしかとらえられない私たちでも、その存在の「事実」を「法(教え)」に知らせていただけるところに「評価・感情」に振り回されない救いの道が開けてくるようにも思います。

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はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生経験も仏法聴聞も、まだまだ未熟な私ではありますが、皆様のお悩みに対し真摯に向き合い、共に悩み共に考えたいと思います。 お話しする内容は「こたえ」ではありません。仏法を聞いてもお金が儲かるわけでも、人間関係に恵まれるわけでも、病気が治るわけでも、何ものにも左右されない心の持ち様が手に入るわけでもありません。 仏法の救いとは悩みが私の思い通りに解決することでなく、どんな悩みも私の現実として引き受けて、悩みながらも生きていけることだと私はいただいております。 悩みを救う(解決する)のではなく、悩む人を救う(悩む私という存在を引き受けていける)のです。 「こたえ」ではなく、「問い」を共有することで、悩み苦しみを引き受けて生きていける一助となれれば幸いです。 【回答について】 後から読み返し、誤字脱字に気づいた際は訂正を入れます。訂正ではなく、お礼コメントへの返信のため追記する場合はタイトルに〔追記あり〕と記載します。 なお、タイトルも本文も字数制限があるため際限なく追記できないこともご承知おきを。
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