仏教の愛とは
お世話になります。
本でキリスト教の「神なる父の愛」という考え方は素晴らしいなと思いました。
仏教で同じような考え方はありますか?
気軽に改宗するものでもないと思うので、
まずは仏教で同じような考えがないかを知りたいです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
やさしさ
キリスト教は、神のミッションを遂行していくことで博愛の精神を育てる。
仏教は、縁起と空を体得していく中で慈悲の精神を育てる。
【博愛】も【慈悲】も、厳密に学者めいた事をいえば違うのかもしれないけど、要はどっちも「おもいやり」のことだ。
キリスト教と仏教と、どちらが優れているのかはカンケーない。
おもいやりの精神が豊かな人は、みんな仲間だ。
愛と慈悲、考えと実践(実存)
ご相談拝読しました。
まず、私がキリスト教の「神なる父の愛」という考え方を理解していないので分からない部分が多いのですが、この考え方は例えば
父なる神という概念をどう理解すべきですか?
https://www.gotquestions.org/Japanese/Japanese-Father-God.html
「父なる神の愛」 小岩喜代美師
https://eiko-church.com/funabashi/20100718_4170
というものでしょうか。
仏教的というか、なおこ様にとって、あるいは私にとって実存的にこの素晴らしい考えが成り立つには
①父なる神の愛が素晴らしいから私たちもその愛を実践しよう
→本当に私たちに実践できるのかどうかが問題=いくら素晴らしくても実践できないのであれば絵に描いた餅になってしまう。
②父なる神の愛が素晴らしいけれどもそれを私たちは実践できないから、父なる神の愛を一心に受けよう
→神の実在・証明が問題=神の実在が前提となるため。
というような視点と問題点があるのかと思います。
さて、では仏教で愛をどう考えるかと言うと、基本的には仏教における愛は「渇愛」として、ろくでもないものであると説かれます。
渇愛:ものを貪り執着すること。あたかも渇いた者が水を求めてやまないように、欲望の満足を強く求める心。
他に「欲愛」(性欲・情欲)「有愛」(生存欲)「非有愛」(生存を否定しようとする欲望又は繁栄を願う欲望)などありますが、いずれも肯定的なニュアンスではありません。
例えば実際の経文では
・愛欲に駆り立てられた人々は、罠にかかった兎のように、ばたばたする。束縛の絆にしばられ執着になずみ、永い間くりかえし苦悩を受ける―ダンマパダ342
などと説かれ、愛欲・愛執を脱せよと教えられます。
つまり我々の側の「愛」はよくよく注意しなさいよということですね。で、なおこ様がもとめるようなイメージの「愛」については「慈悲」(場合によっては慈愛・信愛などと表現されることも)として説かれます。
これは私たちではなく仏様の側の「はたらき」です。もちろん仏とは「人間が成るもの―成仏」ですから究極的にはこれを目指すわけですが、そこでまた仏道が様々に別れてくるわけです。
文字数制限で語り切れない面が多いですがご参考まで。
御本尊を「親さま」とも呼びます。
私は浄土真宗ですが、
御本尊である阿弥陀如来は
「あなたを必ず救います、
安心してまかせなさい」
と誓っておられます。
親がわが子を想うようです。
ですから、阿弥陀如来は
私をわが子と慈しんでくださる親さまなのです。
そうですね、浄土宗や浄土真宗などの阿弥陀仏信仰に近い感じがしますね。
同じ宗派でも人それぞれ阿弥陀仏の見方が違っていて、ある人は自分達の親として信仰しています。(ちなみに私はご先祖様に近い感じを抱いています。)
悪いことをしたら阿弥陀仏に向かって懺悔します。
そして、ただ「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えるだけで救うと言われているのです。
仏の大愛
明治の大徳であり、“現代の釈尊”とまで呼ばれた山崎弁栄上人は、大愛なる阿弥陀如来の実在を説かれました。仏教学者の故中村元博士も、これまでの仏教者の中で、「愛」という言葉を最も使ったのは山崎弁栄上人だった、と言われています。
質問者からのお礼
ありがとうございます!
とても参考になりました。
頂いたご意見を参考に、勉強してみます。