いつ自分が死ぬか不安
最近、身内の死や友人の死に遭遇して、毎日死への恐怖に怯えています。また、家族がなくなったらどうしようや、考えすぎの毎日を送っています。
前向きになれるよう、アドバイスをお願いします。
考えすぎ、気が弱いところです。
お坊さんからの回答 3件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
私も不安です。
その不安は誰もが抱いていますが
今はまだ我が事じゃないと
考えないように見ないようにしています。
そして
身近な方と死別すると
その想いが途端に膨れ上がり
我が事となって怖くなります。
でも今回は
そういうご縁を頂いたんだと開き直り
思い切って終活するのも案かもしれません。
私も自分の死は怖いですが
毎年遺言を書くなど終活をすることで
我が死を受け入れざるを得ないと開き直れました。
いつ来るか分からない我が死を
一度しっかり考えることは
逆に怖くなくなるもんですよ。
良いご修行をされていますね。
お世話になります。
1.最近、身内の死や友人の死に遭遇して、毎日死への恐怖に怯えています。
2.また、家族がなくなったらどうしようや、
2.1.考えすぎの毎日を送っています。
3.前向きになれるよう、アドバイスをお願いします。
まず、質問の内容を精査しますと
1.身近な方の死に接して、恐怖・不安を抱くようになった。
2.ご自身だけでなく、親しい周りの方々の死に対しても恐怖を感じるようになった。
2.1.ご自身はこのことを「考えすぎだ」と感じていらっしゃる。(内容が違うのでわけました。)
3.前向きになりたいと考えていらっしゃる。
と言うように私は受け取ったと言う前提で所感をお話させていただきます。
死に対しての恐怖・不安というのは、仏教の出発点であるように思います。
つまり、キティまま様は、「お釈迦様と同じ尊い不安」をお持ちになったんだと思います。ですので、その不安や恐怖は決して考え過ぎではないと私は思います。
どうぞ、その不安と恐怖を味わってみてはいかがでしょうか?
不安は消えないかもしれない、恐怖はなくなならないかもしれない。
でも、その不安のために何かをしなくてはと考えるようになるかもしれません。
同じ恐怖にある方に、優しくできるようになるかもしれません。
これが、3.の「前向きな」状態なのだろうと思います。
お釈迦様に関して言えば、四門出遊のお話をすることもできますが、ここでそれをしておりますと確実に字数制限に掛かりますので、機会がございましたら四門出遊でググってみてください。
今まで多くの方を送ってまいりましたが、仏様はいくつで亡くなったとしても、少なくとも1つ大事なことを教えてくださいます。それは「人が亡くなる。」ということだと私は考えています。
恐怖も不安もキティまま様の人生を描くにあたって、無くてはならない絵の具なんだと思います。先に逝かれた方から、これからを生きていく上で大事なことを考えるのに必要な「不安」と「恐怖」を頂いた。頂いた考える機会とそのご縁を大事に、悩みながら生活をされている、これは立派な修行だと思います。(そして、実はその生活をされている姿そのものが悟りなのでしょうけれど)
良い修行をされていますね。
修行だから辛くって当たり前。でも、修行だからもういいと思ったら止めたっていい。
どうぞ、ご自愛ください。
念仏いたしましょう
佛教では無常を説き、「祇園精舎の鐘の声諸行無常の響きあり」(『平家物語』)とは申しますが、いつ死んでもおかしくないとは説きます。平安時代のことですが、臨終行儀というものがありました。これは死にあたって坊さんが極楽往生を確実にするための儀式でありましたが、法然上人は「平生の念仏が臨終の念仏となる。」と説かれ、「生けらば念仏の功つもり、死なば浄土に参りなんとてもかくてもこの身にはおもいわずろうことぞなき。」と説かれました。念仏をお勧めいたします。
質問者からのお礼
ありがとうございます。気持ちが楽になりました。
ありがとうございました。