お坊様の修行について
ハスノハに相談して心穏やかに過ごしています。お坊さんという職業についてわからない事があります。
先日大阿闍羅になるための修行の特集を見ました。大変な修行でした。私には想像もつきません。
しかし私がハスノハで救われたように沢山の方の悩みを真摯に受け止めお返事を下さるお坊さん方も大変な修行をされて今があると思っています。又、お坊さんという枠を越えて色々な形で活動されているお坊さんもハスノハにはいらっしゃいます。
そこに何の違いがあるのか知りたくなりました。
命を重んじるお坊さん方の修行の中に成し遂げられない時は短刀で自決という修行とは…
命をかけて得る称号とは…
見ればみるほどわからなくて
同じお坊さんの事なのでお答え頂ける範囲で教えて頂きたいです。宜しくお願い致します。
失礼な質問かもしれません。その時は、どうかお許しください。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
人生色々、人も色々、当然お坊さんも色々
ご相談拝読しました。
ん~色んなお坊さんがいるわけですが
>そこに何の違いがあるのか知りたくなりました。
というのは…上手く伝わるかわかりませんが、本質的な違いはないのではないでしょうか。
幸せになるため、自己実現のために猟師になる人も農家になる人も警察官になる人もケーキ屋さんになる人もいるでしょう。
(幸せになるため、自己実現のためというわけでもないですが)お坊んさんも色々です。
千日回峰行については1,300年で達成したのは2人ということですが、ではこの1,300年にその2人以外は皆自決しているかというとそんなことはないでしょう。短刀は「戒め」であって、そこにあまりとらわれると混乱するかもしれません。
なお、お釈迦様は苦行を否定しておられます。なので苦行の先に覚りがあり、苦行によって覚れるわけではありません。
つまり、大変な修行も覚りのための方法論・手段ではなくその修行それ自体の中に何かしらの気づきや目覚めがあるからされているのではないでしょうか。(私は浄土真宗でありいわゆる修行はないので正確にはわかりませんが。)
ですからその修行でしか気づけない人、その修行で気づきたい人、たまたまその修行に縁があった人、そうでない人…色々いるわけで、どれがいいとか悪いとか、優れているとか劣っているとかいうわけでもありません。
>命をかけて得る称号
が欲しくて修行しているわけではないのだと思います。
町のケーキ屋さんでも、大手チェーン店のケーキ屋さんでも、趣味のケーキ作りでも、業者向けの卸しのケーキ工場でもケーキを作っていることに変わりはありません。
それをなぜ違うの?なぜそこでケーキを作るの?とはならないと思います。
「お坊さん」というものが何か特別視され過ぎるとわからなくなってしまうかもしれませんね。
『やってみなければ分からない』。
修行と申しましても人の数だけ星の数だけ
修行のありかた、というのはあるんだろうと思います。
修行などしない、むしろしちゃいけない、というお坊さんも
確かいらっしゃるはずです。
各々の、自分との向き合い方次第ということではないでしょうか。
孤独な言い方ですが
その人の修行の意味など、その人自身だけのもので
違いと言われても、極論は『やってみなきゃわからない』ということになると思います。
命を賭けることで命を重んじることができるのかもしれませんし、
それは分かりません。
もし、命を賭けて命を重んじる、という矛盾が
耐えられないようでしたら
それ以上突っ込まない方がいいかもしれません。
追及していけば
仏教や修行に感じる矛盾というものが、自分の中に出てきますから。
あえて言えば
命を重んじるからこそいい加減な態度ではやらないぞ!
という決意の表れだと見ることもできるでしょう。
しかし
誰かに分かってもらいたくて
やっている修行ではないはずです。
そもそも、自分の中の、どうにもならない問題を
抱えていて、それをどうしても解決したい!
という決死の思いを、修行に託した人が
それだけ昔からたくさんいたということですから。
初めから命を重んじたくてやっているとは思えないです。
『命を重んじるお坊さん方』と
おっしゃっていますけれども
果たして私たち人間は、命を重んじることのできる生き物でしょうか?
断言できますか?
そういった問いに押しつぶされていくと
どうすればいいの、となると思います。そしたら
『やってみなきゃ分からない』と
言うしかなくなるんだろうと思うんです。
それが、人によっては、あのような修行として表れてくるのではないでしょうか。
質問者からのお礼
吉武様
ご回答ありがとうございます。
仰る通り他の職業を見てなぜ?どうして?とはなりません私自身がお坊さんを特別視していますね。困った性格です。
称号が欲しくて…等とは思っておらず
称号が欲しくて修行ではなく
大変な修行の先にあるものだと思います。
確かに[気づき]と言うことを仰ってました。
短刀や白紐は戒め…安心いたしました。そうですよね。私でいう御守りみたいなものですね。ほんとに自決しないといけないのか?とモヤモヤしていました。
お忙しい中、ご回答ありがとうございました
吉井様
ご回答ありがとうございました。
やってみなければわからない
矛盾が
耐えられないようでしたら
それ以上突っ込まない方がいいかもしれません。
追及していけば
仏教や修行に感じる矛盾というものが、自分の中に出てきますから。
あえて言えば
命を重んじるからこそいい加減な態度ではやらないぞ
おっしゃっていますけれども
果たして私たち人間は、命を重んじることのできる生き物でしょうか?
断言できますか?
全てのお言葉ありがとうございます
上手く言い表せませんが、私の性格の悪い所を指摘されたようで何だか突き刺さりました。
改めていこうと思います。
ありがとうございました