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浄土真宗では、身体障碍者は往生できないのですか?

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有り難し有り難し 32

おはようございます

無量寿経を読んでいたところ、41願からの「他方国土の菩薩」という表現が気になり、蜂屋賢喜代という方の本で調べたところ、この方は他方国土の菩薩を念仏者と説明しており、信心を頂くと、41願の功徳により、現世でも身体が壊れなくなると説明していました

私の祖母は、熱心な念仏者でしたが、晩年は目(眼根)が見えなくなりました。これは信心が決定していなかったという証拠なのでしょうか?
私もいつ目が見えなくなったり耳が聞こえなくなったりするか分かりません 身体の障害は信心を頂けてない「証拠」になるんでしょうか

41願の「たとえわたしが仏になることができても、他の国の菩薩たちが六字の名号を聞きて、仏に成るまでの間、その身に不自由な点があるなら。わたしは決して仏になりません。 」という願は、本当に信心決定した者への願なのでしょうか?そうすれば、身体障碍者は救われないという結論になると思うのですが…

他方国土の菩薩とは誰のことなんでしょうか?

知恵をお貸しください

2019年4月5日 7:47

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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

一緒にきちんと学んでみましょうね

恥ずかしながら第41願文をまだきちんと読んだことがなかったので課題をいただきありがとうございます。

本回答は金子大栄『四十八願講義』(法蔵館)・宮城顗『テキスト本願文』(大阪教区伝研の会)及びその私的解釈に依ります。

さて、金子師は「他方国土の諸の菩薩衆」について「願生しない菩薩」、つまり「浄土往生を願うのでない菩薩=他の教えを自らの力で修する者」と味わっておられます。より具体的には「哲学・倫理・芸道、及び聖道門の修行(をする者)」とも表現しておられます。

つまり、48願における「他方国土の諸の菩薩衆」について願い誓われた願文は阿弥陀仏が浄土往生を願うのでなく他の道を歩もうとする者についてまで願いをかけておられる願文ということです。

次に、その中の第41願本文「たとい我、仏を得んに、他方国土のもろもろの菩薩衆、我が名字を聞きて、仏を得んに至るまで、諸根闕陋して具足せずんば、正覚を取らじ。」における「諸根闕陋して具足せずんば」の解釈についてです。

全ての本願文にはその願いが成就した成就文がありますのでセットで見てみましょう。

41願成就文「仏道を成るに至りて、耳根清徹にして、苦患に遭わず。目にその色を覩、耳にその声を聞き、鼻にその香を知り、舌にその味いを嘗め、身にその光を触れ、心に法をもって縁ずるに、一切みな甚深の法忍を得、不退転に住せん。仏道を成るに至るまで、六根清徹にして、もろもろの悩患なし。」

ここでは確かに「六根清徹」が言及され、それだけを読むと「障害がない」とか「身体的に不足がない」とも解釈できるでしょうが、成就文全体を読むとけしてそれがメインの目的でないことがわかります。あくまでも「六根清徹」によって「一切みな甚深の法忍を得、不退転に住せん。仏道を成る」ことが本来の目的でありましょう。

つまり、全体で味わうと「浄土往生を願うのでなく他の道を歩もうとする者であっても、阿弥陀仏のみ名(南無阿弥陀仏)を聞くならば、その道を徹底し、さらには念仏の道をも徹底せしめ、一切の道について根欠でなくなるようにしたい」という内容と解釈できます。

また、そもそもの話ですが「身体が壊れなくなる」などの実体論・実体的な利益を期待する解釈は仏教的には誤りではないかと感じます。

救いから漏れようと願文を読むのでなく、誰をも救おうとするものとして読みましょう。

2019年4月5日 9:55
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有り難し
おきもち

はじめまして。 北海道の道南地区にある若松という農村のお寺に所属しており...

もちろん、お婆様も往生出来ますよ!

お若いのに無量寿経をお読みとはビックリですね。

ご存知でしょうが、お経とはとても難解な物で、それゆえに多くの宗派が存在します。
同じ宗派でも学者さんによって唱える学説が違います。

多くの学説を知り自分の「お味わい」に繋げて行くのが健全なものになるでしょう。

蜂屋賢喜代さんの事はそんなに詳しくは無いですが、少々片寄った受け取りをされた方のようですね。

さて、41願についてですが、私は、「阿弥陀如来の名を聞き、お覚りを得た者は、例え障害があっても、その障害から解放される」、と味わいます。

また、ここでの「解放」とはただ単に無くなるのではなく、文字通り「解放」されるのです。

他方国土の菩薩とは、どんな方でも(たとえばどんな人種や宗教の真理を求める者でも)というくらいの意味に受け取ってみては如何でしょうか?

2019年4月5日 8:27
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有り難し
おきもち

浄土真宗本願寺派 忠専寺 住職 同宗派 特別法務員 同宗派 布教使 ...

信仰しても障害はなくなりませんが・・・

のちさん、こんにちは。

信仰したからといって、障碍は直接的にはなくなりません。たとえば手がなくなった人が信仰したからといって手がはえてくるわけではないのです。

仏さまの悟りは生老病死の受け止め方のあり方です。苦しみから逃げずに苦しみを受け止めるからこそ、そこから苦を乗り越える心を作っていくのが、仏教の修行なのです。たとえ手がなくともその人が気にしなければそれは障碍になりません。そのように障碍を乗り越えて私以上に楽しく生きている人はたくさんいます。またそういう方ほど障碍のおかげで心が自由になった。いろんなチャレンジができたという感想も良く来ます。仏教経典で障碍がなくなるということはそういう捉え方になると思います。

その上で、仏さまは、障碍者も健聴者も分け隔てなく、仏さまの道にお導きくださり、そして教えを信じ教えを実践したものを平等に仏さまの位への一歩へ導いてくださいます。人生を一所懸命感謝で生きているとそういう仏さまの慈悲が感じられるようになります。すると、お婆さんもあなたも毎日ご加護してくださっているのがわかるのです。

そのためには揺るがない信心が必要です。一緒に精進していきましょう。合掌

障害も人が生きるために大切な

2019年4月5日 9:43
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有り難し
おきもち

★僧伽(お友達)になりましょう。一緒に仏教を楽しみましょう★ Email...

質問者からのお礼

みなさん、ありがとうございました
偏った解釈を少し読んで、それに影響されてくよくよしていたようです
みなさんに教えてもらった41願の「味わい」を自分の中に消化しつつ、また勉学に励もうと思います

「浄土真宗」問答一覧

上司から一方的な注意

いままでの職場は規模が出かかったので、人間関係のトラブルは表に出ていなかっただけかもしれないですが、特になかった環境で働いてきました。仕事と割り切って働いていたので気に留めてなかったし、めんどくさい関わりたくないと思っていたからかもしれないですが。 転職をして今の職場に入って3年目に入りました。話す人とはフランクに話しますが話さない人とは淡白な感じになります。 私自身、10代のころいじめにあい人に対して積極的に関わりにいくタイプではないです。人見知りな性格だし初対面だと警戒心丸出しです。話す数を重ね慣れてくると話せてきます。フランクにいきなり喋りかけられると警戒してしまいます。土足でヅカヅカ来る人無理です。こんな私です。 去年の冬ぐらいから、部署の違う女性スタッフから、その人が在籍している部署を通らないと目的地にいけないので通っていたら、「Aくんがさ〜、Aくんにさ〜、Aくんもさ〜」と自慢なのか、私のAくんと言わんばかりに聞かされてました。毎度聞かされるので、フランクに話す人に聞いたら全然聞いたことがないと言われました。なので長く勤めている人に聞いたら、この2人はすごく仲が良いと知りました。交際してるんじゃないかと思わせるぐらい仲が良いと。だから、私に対してAくんに近づくなと警告してんじゃない?といわれました。また、女性側はリストカットをするぐらいメンタルがヤバく被害妄想があると知りました。へぇ〜って思い、女性スタッフとは関わるとめんどくさいことになるから極力関わらないようにしようと決めました。Aくんは部署が同じなので、仕事上の関わりはふつうに持っています。 それから、その女性スタッフとは関わりのあるときは淡白な態度で接していたら、無視をされていつも私に対しては怒っていて冷たいと私の直属の上司に相談したようです。そのあと、一歩的に注意をされました。あなたのやっていることはパワハラ・いじめだと言われました。反論もせずに聞き入れたのですが、腑に落ちません。なぜそこまでいわれなきゃならないのかわかりません。言ったもんがちの風潮な職場だと痛感しました。 私はこれからどうしたらいいのかわかりません。ひとまず普段通りに仕事もしているのですが・・・転職の二文字が頭をよぎっています。

有り難し有り難し 3
回答数回答 1

浄土真宗の自分の解釈について間違ってると言ってほしい

ある一つの疑念が強迫観念のように頭の中に張り付いていて、阿弥陀仏の本願がうまく聞けないのです。 それは「18願によって信心決定した者は救われるが、信心決定したものは諸根が具足する」というものです。 荒唐無稽かもしれませんが、第41願に信心決定したものは諸根が具足するととある本に書いてあって、それを見た瞬間諸根が具足しないかもしれない自分は救われないかもしれないとショックでした いろんな本を読んだ結果、これは初住以上の菩薩のための願だとか、聖道門の菩薩を引き入れるための願だとか、他の訳では仏刹(浄土)と書かれてあるから、娑婆世界には関係ないとか、頭では納得できて、そっちのほうが正当な理解なんだろうな、と分かるのですが、頭の片隅に「体の弱い自分は救われないかもしれない」というのが絶えず渦巻いています 自分でも自分のこの疑念は完全に間違った教義理解だとは考えているのですが…。 「18願によって十方衆生の信心決定したものは救われる」「信心決定したものは諸根が具足する」「よって諸根の具足していないものは信心決定していない」「諸根の具足していないものは救われない」 という自分の誤った疑念を間違っていると言ってほしいです。 同じような投稿を前にもしたのですが、専門家のお坊さんに「それは間違ってるよ」と言ってほしいのです。わがままですみません 自力で変な解釈をしてしまう自分に嫌気がさします…。 こういうのを「自力のはからい」というのでしょうか 早く自力をからせたいです

有り難し有り難し 52
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どうしても浄土真宗のお経をネガティブな解釈してしまう

どうもこんばんは 以前からの質問を見ていただければ分かると思うのですが、無量寿経の41願について「信心決定したものは諸根が具足する。だから諸根の具足していない者は救われない」といった解釈に気を取られて、ずっともんもんとしておりました それで、ハスノハでお坊様の意見を聞いたり、本で調べたりしたところ、「その解釈ではみな救うと誓っている18願の誓いが守られないからそれは我々に関係のない菩薩様への願だ」「十住以上の菩薩様は三悪道に堕ちることがないので、浄土を願わないものもいる。そうした聖道門の方々を浄土門へ引き入れるための願」「諸根ケツルというのは念仏という大道を知らないこと。哲学者や聖道門の方々も名号を聞くことで諸根具足することができる」「42願~48願を見ると、他方国土の諸菩薩というのは名号を聞くとただちに三昧を得るような方々であるので、われわれには関係のない願」「そもそも障害というのは実体的なものではない」「身体に不自由がないというのは、浄土へ行くのに不自由がないこと」という頭では合点できるような説明がたくさんありました。ハスノハの皆さん、ありがとうございました。 けれども「けれども」なんです…。「もしも」41願が念仏者が諸根具足するという願だとしたら、体の弱い自分は救われないかもしれない…。と、この「もしも」が頭から離れないのです。おそらくこれは、阿弥陀様への疑いと、自力のはからいでもって、このような状況になっているのだと思います。 この「もしも」というのを消す方法はないでしょうか…。そんな上手い方法はないとは思いますが、なんか愚痴みたいになっちゃいました、すみません。阿弥陀様を疑ってしまい、お経をネガティブに解釈してしまう自分がいる。それが悩みです。

有り難し有り難し 39
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浄土真宗の教えについて3

おはようございます。 今回も引き続き浄土真宗の教えについての質問です。 昨日文法様に教えて頂き、私というものがいかに自我という錯覚に踊らされ執着し、分別に苦しめられているのかという事がわかりました。仰る通り自分にとって都合の良い物は欲しいし悪い物は遠ざけたい。 そしてこの道理を知った所で「はい、そうですか。では自我の錯覚を見破りますね。」と簡単にはできそうもありません。 吉武文法様の御回答より引用 〉煩悩を煩悩と知るところに、煩悩の身のままでも煩悩を引き受け、煩悩を活かしていける道が開けれるという救いです。 1、この煩悩を活かしていける道というのは具体的にどういう事でしょうか? 「道理としては病む。でも病気になりたくない。これは煩悩だ。でも何とかしたい!病気になっても治せる様に医者になろう!」という様な事でしょうか? 病む事に変わりはないけれど、少し安心し救われる。安心して迷っている。という様な。 〉これは味わいが強い表現ですが「安心して迷っていける、悩み苦しみ切っていける」とも言われます。 2、ここも具体的に文法様の例えやすい物で構いませんので何かに例えて教えて頂けないでしょうか? 本当は正確には言葉にできない所の様な気がしますし、もしかするとすべきではない様な気もしますが「安心して迷う」という一見矛盾している様なこの表現や「悩み苦しみ切る」という一見普通に過ごす以上に辛そうに見えるこの表現に文法様が込められた真意に触れさせて頂きたいのです。 文字数の関係がありましたら、2の方の質問を優先して御回答下されば幸いです。どうぞよろしくお願い致します。

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浄土真宗の教えについて2

おはようございます。 前回に引き続き浄土真宗の教えについて質問させて下さい。 吉武文法様の御回答より引用 〉「覚りの世界に触れさせていただく」の具体的な相が「南無阿弥陀仏」のお念仏です。御念仏を申すところに阿弥陀仏の願いを聞き、智慧がはたらくことを感得する。 〉それは私自身が「まこと」になるのでなく「念仏のみぞまこと(歎異抄)」であるという感得により「まことならざる私」が明らかになるという形での覚りとの接触です。 かなり乱暴ですが、例えるならウサインボルト(阿弥陀様)の存在を知る事によっていかに自分は足が遅いか、まだまだダメな存在(煩悩にまみれた存在)かという事に気づけば、具体的な距離として自分のダメさに気づく事ができる。 そのダメさに気づく事ができれば、もっと練習(修行やお念仏)をしよう。と具体的に問題が解決に向かう知恵が出る。 という様な事なのでしょうか? どうも私の理解力が不足している様で、前回の御回答を通して「凡夫の君には煩悩をなくす事はできないのだから、生きている間は煩悩まみれの苦しいままでいるしかないじゃないか。」と言われている気がきました。 それとも、死後は極楽に往生するという教えを苦しんでいる「今」の私がお念仏を通して触れさせて頂いたとして 「死ねば確実に苦しみから免れる事は約束されているのだから、今苦しくてもいつか終わるじゃないか!苦しみながらでいい、気楽にいこう!それをいつも忘れない様に南無阿弥陀と唱え、覚りに触れ続けましょう!」と仰っているのでしょうか? もしトンチンカンな事を言っているようならば、ハッキリと仰って頂いてかまいませんし、回答者様の個人の味わいで問題ありませんので、お手数ですが御回答下されば幸いです。

有り難し有り難し 24
回答数回答 1

浄土真宗の教えについての質問

浄土真宗の教えについて質問があります。 悟りの反対が迷いだとして、迷った時に阿弥陀様のお力を心底信頼し、私は大丈夫なんだ!と思う事ができたら迷いがなくなる。それは最早悟りで極楽である。という理解でよろしいでしょうか? 仮にその様に考えると、悪人正機説で親鸞様が仰りたかった事は、「迷いの多い人の方が南無阿弥陀はよく効きます。」という事で、善良な市民や、悟っているお坊さんを批判したかった訳ではなく、犯罪者を特別庇った訳でもない。という風に考えられます。 ところが、浄土真宗のお坊さんのお話によりますと、「現在、この世は末法の世界のため親鸞様は生きている間に悟られる事はなかった。」とお聞きしました。 そう考えますと、私が今、いくら南無阿弥陀と唱えようとも悟る事はなく、この世では楽にはなれない。苦しいまま。という事にならないでしょうか? 私は阿弥陀様の本願、お力を心底信頼し、南無阿弥陀と唱えた時の心のあり様が悟りで、極楽浄土ではないかと思うのです。 それとも、極楽浄土という別世界が西のどこかにあって、生きている間は苦しいままですが、死後苦しみのない極楽浄土へ行くのでしょうか? だとしたらそこには何が行くのでしょうか?魂でしょうか?肉体でしょうか?心なのでしょうか? お手数ですが、回答頂けましたら幸いです。

有り難し有り難し 23
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勉強すればするほど、阿弥陀仏に疑いを持ってしまう

こんばんは 最近浄土真宗の勉強を始めたのですが、前掲の質問で 「救いから漏れようと願文を読むのでなく、誰をも救おうとするものとして読みましょう。」とご回答されたにも関わらず 「自分は〇〇だから救われない」という読み方ばかりしてしまいます 例を挙げると 1第41願に「他方国土の菩薩は諸根闕陋しない」と書いてある。親鸞聖人は著作のいくつかでは信心決定した人を菩薩と仰っている 「本願を信受するは前念命終なり。すなわち正定聚の数に入る。 即得往生は後念即生なり。即時に必定に入る。また必定の菩薩と名くるなり」と愚禿抄に書いてある 教行信証にも、現代語訳の問題かもしれないが、正定聚を「大乗の菩薩」と訳しているものがあった 浄土真宗の本にも「正定聚の菩薩」という表現がたまに出てくる 信心決定したものは菩薩である。だから信心決定した人は五体満足であるはずだ。自分は将来目が見えなくなるかもしれない だから救われないかもしれない 2正法を謗るものは救われないと18願に書いてある 自分は浄土門は嫌いだと公言していたことがあるし これからももしかしたらするかもしれない だから救われないかもしれない 観無量寿経には五逆や十悪をするものは救われるが、正法を謗るもの については書かれてない気がする下品下生とは正法を謗るものも入るのか  3こんな風に、自分は救われないかもしれないとばかり思ってしまいます 自分は自閉症スペクトラム障害で、言葉を文字通りに受け取ってしまう癖があるので、そのせいかもしれないです 比喩的な解釈を聞いても、”でも”こう書いてるじゃないか。。。となってしまう 勉強すればするほど、疑いが強くなってしまう自分がいます…。けれどもっと浄土真宗のことを勉強したいという思いもあります 法然上人が仰っていたように何も考えずに「智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏」していたほうがいいのでしょうか 〇〇だから自分は救われないかもしれない、というのは 間違いなのでしょうか?信心一つで必ず救われるのでしょうか? 矛盾するようでワガママなお願いですが、1と2の誤解(だと思います)を理論的に論破(?)していただいて、3の悩みにも答えていただきたいです

有り難し有り難し 31
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浄土真宗の死後とは

私は浄土真宗です。 死んだら浄土に行くと聞いていましたが、南無阿弥陀と唱えるのは、死後のためではなく、今を生きるためだとも聞きました。 どうしたら念仏することで今を生きるという感覚になるのでしょうか。 死んだ後は浄土にいくのではないならどうなるのでしょうか。 病気でなかなかお寺で聞法できないのでよく分かりません。 浄土には病気が無いとイメージしていたのですが違うのですか? 生きている時「私は私で良かった、あなたはあなたで尊い」と思たらその心こそ浄土と教わったこともありますがうまくつながりません。 10年間以上、生まれつきの要因が大きい病気で体が思うように動かず、学ぶのも働くのも結婚するのも十分にできなくて、その間ずっと「どうしてうまくいかないの」「どうやったらうまくいくの」と考えてきました。 でも、すぐ死ぬ病ではないため、残りの人生おそらく何十年も あると思いますが、ずっと「どうして」と過ごすのかと思うと馬鹿らしくなってきて、段々、「考えて解決しないことなら考えるのをやめよう」「己の身体的限界を受け入れた方が肩の力が抜けてむしろ楽なのでは」という気になりました。 もうこれ以上は個人で考えて結論が出せるものではなく、宗教を学んで信じることで、余計なことに悩まず、残された力を使い、やれることをやるしかないように思い至りました。 それで急に浄土とはどんなものか、死後についてどう考えるべきか、知りたくなってきました。 健康のために具体的に食事睡眠運動に気をつけるのは最善を尽くせているので、その病気になった人にして体調はマシな方ではあります。 ただ、もう気持ちの面で嘆くのは嫌です。 教えて下さい。 よろしくお願いします。

有り難し有り難し 67
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