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浄土真宗では、身体障碍者は往生できないのですか?

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おはようございます

無量寿経を読んでいたところ、41願からの「他方国土の菩薩」という表現が気になり、蜂屋賢喜代という方の本で調べたところ、この方は他方国土の菩薩を念仏者と説明しており、信心を頂くと、41願の功徳により、現世でも身体が壊れなくなると説明していました

私の祖母は、熱心な念仏者でしたが、晩年は目(眼根)が見えなくなりました。これは信心が決定していなかったという証拠なのでしょうか?
私もいつ目が見えなくなったり耳が聞こえなくなったりするか分かりません 身体の障害は信心を頂けてない「証拠」になるんでしょうか

41願の「たとえわたしが仏になることができても、他の国の菩薩たちが六字の名号を聞きて、仏に成るまでの間、その身に不自由な点があるなら。わたしは決して仏になりません。 」という願は、本当に信心決定した者への願なのでしょうか?そうすれば、身体障碍者は救われないという結論になると思うのですが…

他方国土の菩薩とは誰のことなんでしょうか?

知恵をお貸しください


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

一緒にきちんと学んでみましょうね

恥ずかしながら第41願文をまだきちんと読んだことがなかったので課題をいただきありがとうございます。

本回答は金子大栄『四十八願講義』(法蔵館)・宮城顗『テキスト本願文』(大阪教区伝研の会)及びその私的解釈に依ります。

さて、金子師は「他方国土の諸の菩薩衆」について「願生しない菩薩」、つまり「浄土往生を願うのでない菩薩=他の教えを自らの力で修する者」と味わっておられます。より具体的には「哲学・倫理・芸道、及び聖道門の修行(をする者)」とも表現しておられます。

つまり、48願における「他方国土の諸の菩薩衆」について願い誓われた願文は阿弥陀仏が浄土往生を願うのでなく他の道を歩もうとする者についてまで願いをかけておられる願文ということです。

次に、その中の第41願本文「たとい我、仏を得んに、他方国土のもろもろの菩薩衆、我が名字を聞きて、仏を得んに至るまで、諸根闕陋して具足せずんば、正覚を取らじ。」における「諸根闕陋して具足せずんば」の解釈についてです。

全ての本願文にはその願いが成就した成就文がありますのでセットで見てみましょう。

41願成就文「仏道を成るに至りて、耳根清徹にして、苦患に遭わず。目にその色を覩、耳にその声を聞き、鼻にその香を知り、舌にその味いを嘗め、身にその光を触れ、心に法をもって縁ずるに、一切みな甚深の法忍を得、不退転に住せん。仏道を成るに至るまで、六根清徹にして、もろもろの悩患なし。」

ここでは確かに「六根清徹」が言及され、それだけを読むと「障害がない」とか「身体的に不足がない」とも解釈できるでしょうが、成就文全体を読むとけしてそれがメインの目的でないことがわかります。あくまでも「六根清徹」によって「一切みな甚深の法忍を得、不退転に住せん。仏道を成る」ことが本来の目的でありましょう。

つまり、全体で味わうと「浄土往生を願うのでなく他の道を歩もうとする者であっても、阿弥陀仏のみ名(南無阿弥陀仏)を聞くならば、その道を徹底し、さらには念仏の道をも徹底せしめ、一切の道について根欠でなくなるようにしたい」という内容と解釈できます。

また、そもそもの話ですが「身体が壊れなくなる」などの実体論・実体的な利益を期待する解釈は仏教的には誤りではないかと感じます。

救いから漏れようと願文を読むのでなく、誰をも救おうとするものとして読みましょう。

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はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
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もちろん、お婆様も往生出来ますよ!

お若いのに無量寿経をお読みとはビックリですね。

ご存知でしょうが、お経とはとても難解な物で、それゆえに多くの宗派が存在します。
同じ宗派でも学者さんによって唱える学説が違います。

多くの学説を知り自分の「お味わい」に繋げて行くのが健全なものになるでしょう。

蜂屋賢喜代さんの事はそんなに詳しくは無いですが、少々片寄った受け取りをされた方のようですね。

さて、41願についてですが、私は、「阿弥陀如来の名を聞き、お覚りを得た者は、例え障害があっても、その障害から解放される」、と味わいます。

また、ここでの「解放」とはただ単に無くなるのではなく、文字通り「解放」されるのです。

他方国土の菩薩とは、どんな方でも(たとえばどんな人種や宗教の真理を求める者でも)というくらいの意味に受け取ってみては如何でしょうか?

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浄土真宗本願寺派 忠専寺 住職 同宗派 特別法務員 同宗派 布教使 ...
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信仰しても障害はなくなりませんが・・・

のちさん、こんにちは。

信仰したからといって、障碍は直接的にはなくなりません。たとえば手がなくなった人が信仰したからといって手がはえてくるわけではないのです。

仏さまの悟りは生老病死の受け止め方のあり方です。苦しみから逃げずに苦しみを受け止めるからこそ、そこから苦を乗り越える心を作っていくのが、仏教の修行なのです。たとえ手がなくともその人が気にしなければそれは障碍になりません。そのように障碍を乗り越えて私以上に楽しく生きている人はたくさんいます。またそういう方ほど障碍のおかげで心が自由になった。いろんなチャレンジができたという感想も良く来ます。仏教経典で障碍がなくなるということはそういう捉え方になると思います。

その上で、仏さまは、障碍者も健聴者も分け隔てなく、仏さまの道にお導きくださり、そして教えを信じ教えを実践したものを平等に仏さまの位への一歩へ導いてくださいます。人生を一所懸命感謝で生きているとそういう仏さまの慈悲が感じられるようになります。すると、お婆さんもあなたも毎日ご加護してくださっているのがわかるのです。

そのためには揺るがない信心が必要です。一緒に精進していきましょう。合掌

障害も人が生きるために大切な

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質問者からのお礼

みなさん、ありがとうございました
偏った解釈を少し読んで、それに影響されてくよくよしていたようです
みなさんに教えてもらった41願の「味わい」を自分の中に消化しつつ、また勉学に励もうと思います

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ