肉食について
お釈迦様の時代は托鉢やお布施により頂いたものをなんでも食べていましたが、
現代日本において、托鉢でもお布施でもないのにお坊さんが肉食をするのは何故でしょうか。
仏教とは慈悲の心が根底にあり、生命に対し、苦しみを与えないようにするのは当然のことです。
お釈迦様の時代、今のような方法にて動物が囲われ、無理な出産を繰り返し強要され、体の一部を切除され、まだ寿命に程遠い若齢の家畜を殺していたとは思えませんし、
お釈迦様が肉を食べていたのを理由に、肉を食べてもいいんだよ〜というのは間違っています。
残り物を頂くのと、スーパーにて肉を買い調理するのは違います。
漁師のように職業にしている人もいるし仕方ないという話も見ましたが屠殺業に嫌気がさして仕事を変えた人もいます。
出された肉をありがたく食べれば生き物も報われるというなら、人間が死んでも葬式などせず、ありがたく調理して食卓にのせて頂くべきだということになります。
植物も生き物ですが、植物に意識はないですし、もし痛みや意識があるならば、家畜の餌にされている大量の植物を減らすべきです。
穀物や水、家畜を育てるのには大変膨大な資源が使われる一方、穀物さえ食べられずに飢餓で苦しむ人々が沢山います。
日本仏教が妻帯肉食をはじめたのは、その時代において必要な選択だったのかもしれませんが、現代日本にてまだ呑気にそれに甘えているのはどうでしょう。
肉食が許されるのは、病気で肉が必要であったり、高山地帯や極寒地帯において作物が育たない地域の人々であり、
豊かな国では肉を食べたいという煩悩をできるだけなくして、もっと全体の生命に対して心を配る必要があるのではないですか。
仏教は拘りをなくし、解脱をえるのが最大の目的ですが、戒律を手放してよいのは聖人に達したもののみて(仏は存在が慈悲ですから)
煩悩だらけの人間がなんでも手放したら、欲に溺れてしまうだけで、仏教の意味がありません。
また念仏を唱えたなら救われるというのは、一時的な救済で、本当にその人を救うことにはなりません。念仏を唱えようが、殺生をしたならば、やはり因果の報いは受けます。
肉食の許容は、屠殺業を放任し結果的にその人たちをも破滅させます。
私は直接屠殺していないし、肉を食らっても極楽浄土に行けるから、それでオッケーというのは仏教では無いと思います。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
【三学の崩壊】
智慧を獲得するには、修行は不可欠です。修行をするには戒律を守ることが大前提です。これを【戒】【定】【慧】の【三学】と申します。あなたもご承知の通り、このプロセスは仏道修行の大原則といえるでしょう。
ところで、2500年前の古代インドでまかり通っていた戒律つまりルールというものは、はたしてこの令和日本においてそのまま通用するのかというと、やはりそれはどだい無理な話というものです。国や時代、文化が変われば、釈迦の定めた戒律をそのままそこに持ち込むことはできません。皆がそのまま無理に現代社会に持ち込めば、秩序は乱れ、社会機能はたちまちに破綻することになるでしょう。つまり、これは戒律の崩壊です。
【戒】が無効となれば、それを前提としている【行】も不成立となり、それは【慧】の獲得が不可能になる事を意味します。
さて、このゆゆしき事態に、時代時代の苦難に立ち向かった先輩方はどのように応えていったのか!?
<追記>
うん。あなたの主張は正しいし、あなたのご批判は至極当然であり、私はそれををひっくり返してやろうとも思わない。もちろん、肉喰妻帯を正当化しようとも思わない。
ただね、僕は特別な人が特別な環境で行ずる仏教ではなく、一般生活者のための【在家仏教】を学んだんだ。元来の教え通りにはできない者の為の法を学び、実践しています。私もかつては「念仏だけで救われる?なんて胡散臭ぇ教えだ!!」と激しく不審がっていたうちの一人です。でも、もし今後、万が一あなたの学んだ仏教に限界を感じてしまうなどという事が起こった日には、ぜひあらためてご相談くださいませ。
僧侶にとって大切なことは覚りを目指して仏道に努めることです。そして自分を含めた人々が明るく、正しく、仲良く生きるように努めることです。
浄土宗の僧侶や信者が念仏を唱えるのもその為です。
肉食については、お釈迦様が施された肉を食べる様子が阿含経典に記載されています。
生き物を殺すことは戒律で禁止されていました。しかし施された肉は条件を満たせば食べてもいいとされていました。
当時の他の宗教では厳格な肉食禁止の宗教もあり、仏教などと度々論争になっていたようです。
私が思うに、なぜお釈迦様が条件付きで肉食を許可したのか、それは肉を食べないことが仏道の目的ではないからだと思います。
仏道を歩む為に必要なら小欲知足を心がけて肉でもなんでも薬と思っていただきなさい、ということではないかと思います。
肉を食べた方が明るく正しく仲良く生きていける人は適量を心がけて食べるのがいいし、肉を食べない方が明るく正しく仲良く生きていける人は食べない方がいいでしょう。
日々、常識は移り変わり…。
https://tocana.jp/2019/05/post_95157_entry.html
こんな記事がありました。
実は我々が知らないだけで、2500年前から、植物も、辛い思いをしてきたのですね。
質問を読ませていただきました。また、お礼も拝見させて頂き、改めて、僧侶に求められているものの大きさと深さを実感し、今一度襟を正さなければ、と思いました。
ただ、僧侶といっても同じ人間に変わりはありません。
人間である以上、他の生き物の命を奪わなければ生きていけないのは誰しも同じです。
そこで、冒頭のサイトの内容になるのですが、殺生はいけない、と言いますが、植物ならばいい、という解釈が成り立たないことになります。
ここに1つの事実が判明したことにより、これからのお坊さんは、食べるものが無く、絶滅することになります。
仏教には、執着から離れることの大切を説きます。
肉はダメでも野菜ならいい、のでしょうか?。
また、日々技術も知識も常識も、進歩し、変わっていきます。
これまでの常識が通用せず、これからの新しい価値観に対応しなければならない今を生きる私は、皆さんとともに生きる仏教者でありたいと私は願います。
その為に、他者の命を奪わなければならないのであれば、その命を有り難く頂き、自分の中で無駄にせず、生きてもらいたいと思います。
その為に、お肉も野菜も、必要なだけ、頂きます。
世にはびこるいい加減な僧侶に対しての、有難いご指摘として、拝読させていただきました。
質問者からのお礼
ご回答ありがとうございます。
仏教は本来責任のある教えです。軸になる道徳心、慈愛心は、我欲で都合のよいように変えてよいものではないはずです。生命が苦痛を味わいたくないのは、2500年たとうと変わるものではないし、因果応報も変わりません。托鉢は修行の一環でしたから、ご飯をくれる方と目を合わせたり、情をもつことは禁止、ありがたく頂くという概念も本来無いはず。それが今やありがたく頂けばお釈迦様も肉食を許されたなどと解釈されていますが…
たとえ世間が殺生を許し肉を食らおうとも、令和にもなってお坊さんまで一緒に肉を食べていたのでは、仏教の根本が崩壊し、もはや何教なのか分からないような気がします。
念仏を唱えて救われるなら、神を信じれば救われるという宗教と同じになります。自己責任がありません。
私は仏教を勉強して、本当に素晴らしい教えだと思いました。だから、その本来の良さを保っていてほしいし、より多くの生命を救ってほしいと思いました。
三宅聖章和尚様
ご回答ありがとうございます。たしかに仏道の最終目的は悟りであり、肉を食べないことではありません。それにこだわって餓死を選ぶ宗教もありますから、悟る前に死んだら意味がないです。
しかし、お釈迦様がなぜ不殺生や不邪婬を戒律に設けたのか、それは殺生や邪婬が心を乱し、周りや自己を不幸にし、悪業になるからではないでしょうか。
世間一般では、楽しく食べればいいといいますが、それは煩悩です。
他の生命に害を与えない楽しみならば、少欲として許容してかまわないと思いますが、今の人間は、精神的に麻痺してしまったのか、畜産動物をものとしかみません。彼らにとって生まれたことは地獄そのものです。
私は外国に住んでいて、近くに市場がありますが、鶏やアヒルの断末魔をしょっちゅう聞きます。売っている人も買っている人も鶏の痛み苦しみなどそっちのけで楽しそうに笑っています。
悪気なく明るく楽しく食べれば良いのでしょうか。
日本は、さらに見えないところで、屠殺、囲い飼育がされています。スーパーに並ぶのはパック包装された肉で、誰も罪の意識すら持たないのです。これは無知ではありませんか。
お釈迦様は人間だけではなく、すべての生きとし生けるものが安楽であれといったのではないですか。
人間だけ幸せならば、良いのでしょうか。
そして他の生命の苦しみの上に成り立つ幸せなんて本当に幸せなんでしょうか。
お釈迦様も肉を食べ、なんでも薬と思えといったのは、托鉢しか生命をつなぐ手段がなく、食べるものを選べなかったからで、肉食を推奨していたのではないと思います。
それは極寒の地でアザラシしか食べるものがなく他に選べないのと同じ事で、欲とは関係ないことだと思います。
穀物も野菜も豊富な国において、なぜ肉を食べる必要があるのか?ということです。今の畜産システムは少欲などではなく、貪欲です。
和尚様の言われるように私も周りの楽しく肉を食べる人々にわざわざ水を指して場の雰囲気を壊したりはしません。
お坊様方が、欲で肉を食べているのでなく、少欲知足、感謝を心がけているのも分かりますし、皆が楽しく幸せに生きるために念仏や説法なされているのも存じています。
しかし、やはり現代において無駄に産まされつづけ、殺される動物たちのことを考えると納得いかないし、それはお釈迦様の教えとは違う気がしました。世間はどうあれ、あらゆる生命の幸せを願う仏教が、なんでもありとなったのでは、まずいのではないかと思って今回投稿させていただきました。
数々のご無礼をお許しください。
…………
三浦錬浄和尚様
ご回答ありがとうございます。
植物も痛みを感じるという説ですが、こればかりは本当かまだ分かりません。植物は独自の伝達システムがあり、ストレスを感じますが、それは動物が感じる苦しみとは違うものです。子豚は母親を恋しがり、広い大地で遊びたがりますが、植物にはそのような感情はありませんし、分からないのです。動物の感情や痛みは、よく観察すれば人間と同じだと分かります。
もちろん、植物も生き物であり大切にしなければなりません。痛みやストレスを減らしてあげなければなりません。
ならば尚更、畜産はやめるべきなんです。なぜなら、大量の家畜に与える穀物などは、人間が食べる分の何倍もの量だからです。畜産の土地を確保するため森林も伐採します。肉を確保するために、結局は動物の命だけでなく、植物の命も、大量に奪っているのです。また、畜産動物が出すガスも地球を破壊します。
どれも、豊かな先進国の欲のためです。
もし、すべての人が肉食をやめ、家畜に与える穀物を餓えた人々に分けたならば、地球上に飢餓は発生せず、地球環境も良くなるでしょう。
和尚様がおっしゃるように、常識は変化し続けていて、今では人造肉、人造牛乳など栄養や食感を工夫した食材が作られてきています。
動物を殺害することなく、肉食からすぐには離れられない人のためにも考えられています。
人間の智慧は悪い方ではなく、このように他の生命を救うためにあるのではないかと思いますし、仏の教えは本来それを伝えられると思います。
こちらは、私が泣きながらみた動画です。
少し前の台湾のドキュメンタリーですが、今も畜産動物の現状は大して変わっていません。
このようなことを人間の子供には出来ませんよね。
https://ameblo.jp/46493236/entry-11792836909.html?utm_source=gamp&utm_medium=ameba&utm_content=general__46493236&utm_campaign=gamp_paginationThumbnail
………
転落院和尚様
追記を読ませていただきました。
誤解があったのなら申し訳ありません。私は念仏を否定しているわけではないです。
私も、自分で仏教を勉強しながら、やはり経典も読みますし、唱えたりしています。それで楽にもなります。
人間には色々な心の状態がありますから、どうしてもうまく正道や戒律を守れず罪悪感にさいなまれたり、苦しむこともあります。
お釈迦様はそれぞれの人に合わせて、対機説法してきたので、これが絶対すべてにおいて正しい法というのもないでしょう。
今後、生きていく中で何か壁にぶち当たったときは、是非相談をさせてください。
どうもありがとうございます。