真宗のお坊さんに質問です。
私は、曹洞宗の南直哉和尚の著作が好きでよく読んでいます。
南和尚の著作で「超越と実存」という本がありますが、その中での親鸞聖人の信仰のとらえ方が非常に興味深かったです。
曰く、
「親鸞聖人の悪人の自覚は、肉食でも妻帯でもなく、阿弥陀仏の救いを信じられぬことが根本にあったのではないか、そのため謗法をした者をも救われるという根拠を教行信証で示そうとしたのではないか」
ということです。
また、南和尚は
「ゆえに、親鸞の称名念仏はそれ自体無常で無意味な発声行為であり、超越を排しながらも実存を受容する方法として、道元と並び日本思想史上でも希有なものである。」
と結論づけています。
真宗のお坊さんでこの本を読まれた方、また読まれていない方でも南和尚のこのような解釈についてどのように考えられますか?
私はとても心打たれ、やはり真宗もただものの宗教ではない、深淵があるものだと感じました。
理屈っぽい
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理路整然としていて納得できます。
本は読んでいませんが、南さんのお話は好きです
私は南さんの本を読んだことはありませんが、youtubeでいくつかのお話を拝聴しました。お話を聞くのはたいへん好きです。そして、たいへんすごい方だと思っています。
さて、私の考えでは、親鸞聖人は、すべての人が善悪その他の分け隔てをこえて救われていく教えを探された方だと思います。それが可能なのは、100パーセントというか、完全に仏様の側で救いを成し遂げてくださる、つまり人間の側でしなきゃならない何かが全然ないということじゃなきゃいけないわけですね。だから、仏心を与えて、仏様と人間をつなぐ行い(修行じゃなく行為です)としての念仏を称えさせてくださる、という考えに行きついたのでしょう。
これに対して、謗法というのは、仏の教えを否定することだからその状態のままではいけません。そこで、仏教を否定する立場から転換させて救ってくださると親鸞聖人はお考えになりました。これも仏さまからのはたらきです。さきに仏心を与えて、と書きましたが、これは「憑む(たのむ)」語のことです。憑には、憑依とか憑き物とかいわれるように、仏心が私にやどるということですね。
仏心が私のなかではたらいていてくださるから私たちの口からお念仏が出てくるのであり、それが仏を信じられない、仏の教えに共感できない私のなかで超越が活動している証であるとご覧になっていたのでしょう。
お答えになっていますか?