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母親

回答数回答 1
有り難し有り難し 23

1番の理解者であって欲しい母親の考えが大嫌いです。
いつでも人より上に立っていたい。
プライドが高いんだと思います。
褒める事をしない。
私たち子供にもプレッシャーを与えるばかり。
友達やテレビに映る人などなんでも悪口ばっかり。
人を馬鹿にしていないと自分の地位を保てないんですかね。
そんな母親なので何かと相談しようとしてもネガティブな答えしか返ってこないし、頑張って目標を立てて一生懸命になっているところを「やり方違うんじゃない?」「そんなんじゃ続かないよ」「こうなったらどうするの?」とやる気を削ぐような言葉ばかり。
応援なんてしてもらった事ない。
私は頼れる上司や仲間、友達がいないし兄弟とも話さないし母子家庭なので本当に心から頼れる人が存在しません。
何か嫌なことがあったらすぐ相談できて元気をもらえるような、何か頑張ろうと奮起したら応援してもらえるような母親が欲しかったです。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

菩提心を母とせよ

どんなにどん底の人生にあっても「こういう心よりももっと心が楽になれるあり方」を求めましょう。
そして、その質を向上させましょう。
もっと本当の幸せがあるはずだ!と探求心、欲を持ちましょう。
こんなことで終わってなるものか、と時には怒りも持ちましょう。
どうして、私は今のような境遇にあるのか、このまま変わらないのだろうか、と疑問や悩みを持ちましょう。
実は、これは仏教の貪瞋痴という「よく・いかり・まよい」の心です。
世間の仏教においては良くないものとされていますが、本当はそうではありません。
活用法を変えればいいのです。
あなたのお母さんのネガティブ意識もあなたが菩提心をもって受け止め方を変えるのです。
すると、あなたのお母さんのそのご性格は自分を守る上において実に防御力の高い姿勢ではあるのです。
紛争地域や年間に十万人も子供が行方不明になっている中国のようなところでは、優しい、温かい、あまい、誰でも信じるようでは生きていけませんし、子供も守れない。
だから、親も子供に対して愛情として厳しくなる面が出てくるものです。
生きる上において、本当に大事なことは何でしょう。
まず、この自分の命を守ることです。
仏典にも子供が鳥にさらわれてしまって悲しみに暮れている女性の事が記されています。
そういう女性であっても救われていくことがあるのです。
もちろん人生は本当に思い通りにならんことばかりではありますが、そこに菩提心というべき悟りを求める心、安らかな人間性を求める心、他の存在を助けてあげようと思う心を持つことです。
ウソでもいいから暖かな言葉を口にすればそれでも喜んでくれる人がいる。
それはその言葉を発する本人にとってはウソであっても、聞いた人がその言葉をどう受け止めるかによって変わるのです。
受け止める心の姿勢だって変わるのです。
菩提心があれば、自分のインプットされること、アウトプットすることの質がより暖かで、人間性にあふれ、人道的であり、堅実で、明快で、より高い心へと導く働きになります。
そのためにもまず「自分が・わたしが・自分がこう思うには」という心を一度外していただく必要があるのです。
地球上には存在する人間の数だけ、その人の内なるお母さんが存在します。
その内なるお母さんを最高に導く心が菩提心です。菩提心こそが母なる慈悲心であり一切を生かす・生かす心だからです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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