回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
人間は24時間の吸収体 法薬をよりどころとする
薬を止めると薬ではないものを摂取するようになります。
何を私たちは頂いていうrでしょうか。
何を私たちは摂取しているでしょうか。
目には空、山、川、花、大自然と人間の作り出す映像美。
耳には天地自然の交響曲。
鼻には香り、生きていくための必要な酸素。
口には今日も頂戴した他の生命。
体には触れる数々の品々、二度と同じ状態で出会うことのない存在。
心は内部発生する自己流で自己責任な思いの数々。
気持ちが細に向かっていると、薬に頼ったり、今あることを受用せず他に向かうようになるものです。
この身心は存在しているだけで永遠の吸収体。
【授かり】を永遠に続けているのです。
存在しているだけで供養されている。布施をされているのです。
そういう身心が今も触れている、優しいふれあいの数々に目を向けて見ましょう。
本当は人間は元々薬などに頼らずに生きてきたのです。
まずは、今、薬が無くなったという視点ではなく、薬を飲まないでも存在していること。
薬に頼らずとも、今五感が体感することを授かっているという知覚の神秘に目を向けて見ましょう。
存在しているだけでこの身と心はただ吉良津頃をそのまますべてを無条件に頂戴しています。
おそらく、あなたはそれがなんだ、大したことはないと思ってしまうかもしれません。
ですが、本当はこちらが申し上げたいことは違うのです。
なぜ仏教では坐禅をしたり、瞑想修行があるのか。
それはこの自分自身というものをじかに悟るためです。
自分の本当の姿を知るには仏教書も経典でも知ることはできません。
それらは内容の説明が書かれているのであって、その内容を確かめるためには自分で行と証明を通じて明らかにするしかありません。
実証してみると、人間の身心というものは思考をアレコレ騒ぎ立たせる前は実に静寂で問題が何もないことが明らかになるものです。
人生は自分の中で宝(法薬)を見つけることが目的と言っていいでしょう。
それは薬に頼らずとも見いだせるものです。
自身の中で自身を救える働きを薬師如来といいます。
自身の中にそういう素晴らしい法薬があることを見出してみましょう。
それを求めるのが仏道です。
処方薬は自分の判断でやめない
こんばんは。
処方された薬は自分の判断で増やしたりやめたりしてはいけません。特に精神科のお薬は、正しく服用しないと悪化する場合があるそうです。
お医者さんの言うとおりに服用し、診察時に自分の状態を正しく伝える事が、回復への道です。
実は私もしばらく精神系の薬を飲んでいましたが、最近ようやく飲まなくて良い状態まできました。飲み始めた頃小さかった子供がもう高校生です。あわてずゆっくりです。
処方された薬なら
参考までに
薬→クスリ→逆読みして…→リスク とは割とよく聞く話です。
便と不便は表裏一体、諸刃の剣にもなり得るということでしょうか。
眠れないのなら眠らなければよいのではないかと思います。
いずれそのうち体が強制的にスリープ状態へ入っていきます。その時まで待てるなら。
そして一度冷静になって、睡眠を阻害しているであろうものを全て排除してみてください。家電、照明、携帯電話、意外と自然光とか。
あとは自分を良い眠りに誘うための準備です。規則的な時間割のもとに採る食事と、体に無理のない適度で適切な運動を。
質問者からのお礼
ありがとうございました。