hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

自灯明、法灯明について。

回答数回答 2
有り難し有り難し 44

仏教で『自灯明』『法灯明』という言葉があります。法灯明は、ブッタの教えを拠り所とし物を正しく見る目を養うということ。自灯明は、自分自身を拠り所とするという事。ここで質問です。

自灯明は仏教の教えを元に、自分自身の島を作るのか、もしくは仏教とは関係なく、自分自身が納得できる何か(夢中になれる仕事など)を見つけるのかが分からなくなってしまいました。

仏教と関係ないものをベースに考えたら、ブッタの智慧と矛盾するような事が起こってしまうのではないでしょうか。しかし、それをしない為にも経典を全て読み解くというのは在家の修行者には難しいと思います。

自灯明を確立させる為のヒントをいただければと思います。よろしくお願いいたします。

合掌


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

『決意』に支えられている。

こんにちは。
あまりに有名な言葉ですし、すでに様々な方々がそれについて述べていらっしゃるでしょう。
これは私の考えにすぎませんが、

『仏教と関係ないものをベースに考えたら、ブッタの智慧と矛盾するような事が起こってしまうのではないでしょうか。』
そうならないように『法灯明』が続くともいえます。
自分自身の納得の為だけなら仏教でなくたって構いませんから。
あくまで『法灯明』が後に続くのを前提にしていると思います。

それから
『法灯明』はブッダの教えに学ぶことですが、それを正しいと判断するのは誰か?という問題があります。それは自分自身で決めなくてはいけません。

イメージとしては
『無数にある仏法の灯明』の中から(法灯明)
そのうちのどれかを『自分で選ぶ』(自灯明)
そして自分で選んだ『灯明』を拠りどころに生きていく
ということが仏の道ではないかな(仏道)
と思います。
ですから
自分自身の納得と矛盾するのが耐えられなければ、その教えは捨ててしまって構わないとさえ私は考えています。

仏教においては
同じブッダの教えに接していても
各々受け取り方が全然違いますし
また同じ人間でも時が経てば受け取り方が変わったりします。

それを見通していたのかもしれません、
「自分でちゃんと選びなさい。要らない教えは捨てなさい。」と言った
ブッダはすごいなと思いました。
ブッダはこうおっしゃったのです。

『あなたたちは自ら歩まなくてはならない。法は、その道を示すに過ぎない。』
『たとえ私の教えであっても、あなたたちが自分自身で忌まわしく、間違っており、悪いと判断したならば、それを棄てなさい。』
『あなたたちがよいと判断したなら、それに従いなさい。』

「ブッダが説いたこと」(ワールポラ・ラーフラ著)の冒頭に出てきます。
名著です。私は枕頭の書にしています。
確立させるとか、そんな大それたことではなく
どんな小さなことでも、自分で決意したことだけが自分自身を支えてくれるのだということを教えてくれます。

『自灯明 法灯明』はそれぞれ別個ではなくてセットなのだと思うのです。

                       南無釈迦牟尼仏 合掌

{{count}}
有り難し
おきもち

Buddhism. knowing what it actually is. ... 2020/08/22退会 2023/08/29再入会

❝外の事はない❞と悟ることで 自灯明 法灯明 になる。

仏教を学ぶ際、多くの人がお陥るポイントは、仏教という学問を学ぶことであると思ってしまう人が多いのです。哲学、心理学、学問を学ぶように仏教を学ぶ姿勢では仏教は学べません。
ここを説いてくれる人は世に稀なのは、仏法を会得した人が稀だからでしょう。

人が仏教を学ぼうとすると多くの人は自分の頭の中で「ここからここまでは仏教」「それ以外は仏教ではないもの」と思ってしまうものでしょう。
ところが、本当はそんな線引きなどありません。
あなたが窓の外を眺めれば大自然があり、人の往来があり、目に映るもの、この身に聞こえる
響きがある。
どこからどこまでが誰誰の世界と隔てるのは頭の中。
この目にものが映っているときにはボーダーラインはありません。
そして映し出される世界。
それは誰の上で行われているのか。誰のスクリーン上に映し出されている世界なのか。
自分でしょう。
あなたとどんなに親しい人がすぐ隣で同じ景色を見ていてもそれは別世界。
人間は各自各自が、それぞれのスクリーンを持っています。
それが「この身」「この身心」「自己のあらわれ」というものです。
この自身のスクリーン。ここに映し出されていることは、それがたとえ、外の事、人様の事でも、遠い世間の事でもみなわがことでしょう。見ている世界、聞こえる世界、自身とかかわりがある世界。
この自己が扱うことしか世界なんて存在しないのです。
もちろん、外の世界はありますが、それを体感できるのは自分の体感だけどいうことです。
世間がどうしたこうした言っても、自分の身のあるところしか体感できない。
それが自分の鏡が映し出す世界です。
だから、この自分が今存在している所、半径数メートル以内が私たちが世界と言っている所です。そこに映し出される中で自我や能動意識を過剰に重ねない世界は清らかなのです。
そこをよりどころにするのが自灯明です。
修行者が行いと大切にする、丁寧にする、それは外の事はないと悟ったからなのです。
法とは、ダルマですから、同じく人間の自分流の考えを加えない世界。それをよりどころにすること。
自身の上においても私的なはからいをしずめた姿勢も灯明となり、ダルマそのものにお任せる世界も灯明となるのです。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ズバリと的をえた回答で、非常に感動しております。ありがとうございます。法灯明があとに続けば、すべて合点が行き、その灯明は数ある教えの中から選んでいいのですね。回答の中にあった本を私も購入してより理解を深めて行こうと思います。本当にありがとうございました。

合掌

丹下和尚様、仏教との向き合い方のご指南とてもためになりました。確かに、頭の中で線引きをしていたかもしれません。自分の行いを大切にし、『自我や能動意識を過剰に重ねない世界』を目指して日々精進に励みます。回答ありがとうございました。

合掌

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ