亡くなったら今までの記憶は…
お世話になっております。
夫が亡くなってから、毎日このハスノハを見らずにおれない日々となっています。
亡くなった後全て記憶がなくなり、また生まれ変わったりするのが辛くて淋しくて怖くてなりません。
今の家族のまま、あの世でも一緒にいたいです。離れたくありません。
ほんとに御浄土は存在するのでしょうか。
亡くなった後からは、もう全てが終わりますよね。
なぜか、、、あの世での生活が見えないから。分からないから。。。意識がないから。
阿弥陀さまという方にほんとに会えるものなのでしょうか。
あの世で生活した人から話を聞けないのに、なぜ色々な話があるのでしょう。
不思議でなりません。
常に夫が戻ってこないか、いつも考えてしまいます
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
亡き人と浄土は今あなたを救うためにはたらいている
いいのです。そのままでいい。自分の気持ちを偽らなくていい。hasunohaに何でも正直に書いてくださいね。
仏教は智慧の宗教です。智慧のない信心は仏教の信心ではない。つまり、「ある」か「ない」かもわからないものを無理やり「ある」と信じることが仏教の信心ではないのです。
智慧のある信心とは疑いが晴れるということ、「まさにそうでありました」と今・ここで頷かされることです。
何故わかりもしない死後のことをみんな見てきた様に言うのか、にわかには信じがたいですよね。それでいいのです。私もそうです。
でも、それはそれだけ人々が死後について思いを馳せざるを得ないという歴史でもあるのです。
しかし、どれだけ頑張っても私たちにわかるのは今この私についてでしかない。
亡き人は記憶があるのかないのか、また会えるのか会えないのか、阿弥陀はいるのかいないのか、浄土はあるのかないのか、亡き人はどこかで迷ったり苦しんだりしているのかそうでないのか…死んだら何もないのか
全部生きている人、つまりあなたが考えていることです。亡き人がしていることではない。
亡き人はただその命の終わりの事実を通してあなたに問いかけているだけなのです。
その時に気づくのです。
亡き人がいるとかいないとか、浄土があるとかないとかを超えて、今この私に気づかせてくれる「はたらき」として、私と離れずに亡き人がいる。それを説く教えがある。
死後の話ではないのです。死後は「わからない」。わからないはずのものを色々と思い計らうのは「私」。私にそうさせるのは「亡き人」。ならば「亡き人は」死後でなく、今ここに「いる」…。どう「いる」のか?
「私にとって」の亡き人しか私には確かめられない。
私にとっては亡き人は私を私自身の姿に目覚めさせてくれる存在です。そしてその存在が浄土の教えを私に伝えてくれます。死後(のようにみえる)の浄土の教えが今私を救うのです。
あるとかないとか、死と生とか、分断するのは全部私の思い計らいです。私の思い計らいに私が迷っていた。
有無を超えてはたらく亡き人と教えが声なき声として私にそのように響いてくるのです。
あなたにとっての亡き人はどんな存在か。ゆっくり確かめていきましょう。
いまでも一緒
人間死んでも、終わりません。
魂、意識は続きます。肉体の変化を死というのでしょう。
あの世と言われているのは次元が違うから見当もつきません。でも、あなたもその次元から来て、そこへ戻るだけ。
だから、みんな同じです。いまでも一緒にいますよ。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
御質問拝読いたしました。
文面からだいぶ、
ご自身のお気持ちに、
だいぶ整理がついて
こられたのかな
と思いました。
愚僧は信じています。
実際に極楽浄土が
あるのかないのか、
そんなことはどうでも
いいんです。
信じることが大事だからです。
明日をも知れぬ我が命、
明日には白骨になる身の上です。
そんなことをいちいち心配して
いたら疲れてしまいます。
いま一瞬を楽しく過ごせたら、
いいのではないでしょうか。
万が一、死を迎えても、
阿弥陀さまがお迎えに、
いらっしゃった!
と笑顔で往生するのか、
死んだら全てお終いと、
暗く悲嘆に暮れながら、
苦渋の顔で往生するのか、
愚僧は前者を選びます。
愚僧は信じきっていますから。
親鸞聖人さまは、
師僧であらせられる
法然聖人さまから、
往生三度になりぬるに、
この度ことに遂げやすし
輪廻転生を繰り返して、
記憶のある限りは、
三度目の往生ですが、
今回は特に遂げやすそうだ。
とおっしゃったそうです。
ということは、
人は生まれ変わり、
死に変わりする、
信じるものは、
極楽浄土に行く。
ということになる訳です。
信じようと信じまいが、
自力で悟りを拓けそうも
ありません。
ですから、こんな愚僧には、
これしかないのです。
信じるものは幸せですよ。
だから信じる。
他にはありません。
先にご往生されたご主人さまに、
仏壇かお写真の前で、
阿弥陀さまの露払いをして、
私が往生する時は、
お迎えに来なさい!
とお願いしましょう。
優しいご主人さまのこと、
必ず迎えに来られますよ。
信じましょう!
再会と新生活を。
ご健康と長寿を祈ってますよ。
長生きしてご主人さまを
たっぷり待たせましょう。
人は死なないよ
大切な方と、会えない、本当に辛いです。
いつかわからないですが、この身体が終わった時み必ず再会出来ます。
身体は無くなっても、命はなくなりません。
ご主人は、いつもあなたの近くに来てくださいます。
何も考えなくて良いですよ。
ただ、阿弥陀さまに、すがれば良いだけ。
考えずに、阿弥陀さまのお名前を称えて、おまかせしてください。
ご主人を感じられるはづです。
南無阿弥陀佛
浄土は‟いま、ここに”
こんにちは。亀山純史と申します。
「本当に浄土は存在するのか、しないのか。」「阿弥陀様は本当にいるのか、いないのか。」あの世で生活した人から話を聞くことが出来ないのに、なぜ、こうも死後の世界とかかわる話を説くことが出来るのでしょうか。その答えは、仏教における死後の世界は「説かれる」ものであり、「実証される」ものではないからです。「説かれる」とは、そこに価値観が含まれます。この世で私たちがどのように生きていけばよいのか、つまり、人生における価値観は、「説かれる」ものであり、科学によって「実証される」ものではありません。同じ環境で生きていても、どのような価値観を持って生きるかによって、自分の人生に満足する人もいれば、不満のほうが多い人もいます。それと同じように、死後の世界は科学的にどのようになっているかはわかりませんが、死後の世界にどのような価値を見いだすかによって、どう亡き人を偲び、そしてこの私が今、どう生きていくべきかが、仏教においては説かれているのです。
「浄土」も「阿弥陀様」も、仏教における「悟りの世界からのはたらき」です。悟りの世界は、この世だけに関わり合いを持った世界ではありません。それは死後の世界とも関わり合いを持っている世界なのです。ですから、浄土とはあの世の世界と思われがちですが、浄土とはあの世の世界だけではなく、この世にも関わる世界なのです。そうすれば、亡き人は、私たちからずっと離れた世界に行ったのではなく、“いま、ここに、居てくださる”のです。
私からの回答の終わりに、中西智海和上様が詠まれた詩を紹介しましょう。
『人は去っても その人のほほえみは 去らない
人は去っても その人のことばは 去らない
人は去っても その人のぬくもりは 去らない
人は去っても 拝む掌(て)の中に 帰ってくる』
亡き人が、拝む掌(て)の中に帰ってくるのは、まさに、浄土が“いま、ここに、も関わっている世界”だからなのです。
質問者からのお礼
大変遅くなり、失礼致しました。
多数の回答、ありがたく、何度も何度も読ませていただいております。
また今後もお世話になります。
本当にありがとうございました
まだまだ不安は消えず、亡くなったら夫にちゃんとあえるのだろうか…
亡くなったら、今の子供達とも、夫とも、また家族になれるわけではない、全て記憶がなくなり、一からの人生…と思うと怖くて淋しくて。。
その不安がくるたびに、読ませていただいてます。