hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

生きることをやめたい。

回答数回答 2
有り難し有り難し 21

こんにちは。
29歳、医療職の女です。

いつからか、タイトルのように『生きることをやめたい』と思うようになりました。ですが、自分の命を経つ一歩が踏み出せずここにいます。

とても恵まれた環境にいることは自覚しています。家族からも愛され、幸いにして友人や恋人と呼べる関係の人もいます。楽しいと感じることもたくさんあるし、幸せを噛み締めることもあります。

ですが、その楽しさや幸せを感じているときでも「死にたいか?」と問われれば「はい」と答えられます。死ねば周りの人が悲しむことも想像できます。それでも、もう生きていたくないのです。

なぜか。
自問自答すると、結局 自分のことを好きになれない 自分が無価値だと感じている ことが根底にあるように思います。
冒頭に申しましたように、医療をかじっているので、この自己肯定感の低さをどうにか変えれば良いのだろうということはわかります。

でも変えられないのです。変えてまで生き続ける理由も価値も自分にはないと考えています。だからずっと“生きていたくない”と思いながら毎日生きています。事故や事件に巻き込まれて死ねないかな。このまま寝て目が覚めなければいいのに。

ただでさえ、死ぬことすらできない自分が嫌いなのに、自分の失敗を酷く嫌い、ストレス耐性の低い私は、ちょっと嫌なことがあるとさらに自分のことが嫌いになります。
そんな精神状態で人を励ましたりケアしたり指導したりする仕事もつらい。

こんな気持ちを抱えながら生き続けるのがつらくてたまりません。このつらい気持ちから逃げたくてたまりません。

理由なく生き続けるには無価値過ぎる自分は、どうすればいいのでしょう(生きるのに目的や理由が必要とは思っていませんが…)。この気持ちにどう折り合いをつければ良いのでしょう。
むしろなぜ皆さんは生きていられるのですか?死にたいと考えることはないのですか?

とりとめのない内容ですみません。
死ぬ勇気はないので、当分自ら死ぬことはないと思いますが「死にたい」「自分など死んでしまえ」「なぜ死ねないんだ」と言いながら泣く日々が少しでも楽になればと思い相談させていただきました。
よろしくお願いいたします。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

あなたは一人じゃない

こんばんは。ご相談拝読しました。

私たちは自分で望んで生まれて来たわけではありません。気がついたら生まれていた。
それなのにその私はいつか必ず死ななければいけない。それなら一体この私はなぜ生きなければならないのか?

これは誰もが必ず自分の存在の深いところに抱えている根本問題です。その問いを抱えているあなたはけして一人じゃない。大丈夫です。

それはあなたの問いのレベルが他の人とくらべてまだ浅いとか、状況が恵まれているから贅沢だという様な相対的な意味で大丈夫というのではないのです。

その他の誰でもないあなた自身がこの問いを抱えているのはけしておかしなことではないということです。

幸いhasunohaには既にこうした問答のデータが蓄積されています。問答カテゴリの「>生き方・心構え>生きる意味」や検索ワードで「生きる意味」「生きる理由」などをみて、人々がこの問いの前に自己の存在を賭けて格闘してきた歴史を読みあさってみてください。そしてあなたもその一人としてこの歴史に参加しましょう。
一緒に考えていきましょう。

さて、

>自分のことを好きになれない 自分が無価値だと感じている

から生きたくないとのことですが、私たちは本来は価値がなければ生きてはいけないような存在ではありません。
確かにこの私がこの世で為せることなどほんのわずかで、この私がいなくても困らないかもしれない。私の役割を私よりもっと優れた能力でこなせる人がいるかもしれない。

でも、その他の誰でもなくこの私が、今・ここに代えのきかない存在としていること自体に意味があるのです。それは相対的な意味ではない。絶対的な意味です。

それでも社会はなんだか「生産性の高い私」を求めてくる。高い低い、多い少ない、早い遅い…そうした価値観で私を測ってくる。

いつしか私自身が「私の思う理想の私」を相対的な価値観の中で良しとして、「そうはなれない現実の私」を「ダメな私」として自己否定していく。
あるいはその裏返しとして「どうして私の価値が分からないのか」と社会を責め、ありもしない「ここではないどこか」を頭の中で求めていくこともある。

仏教で救われるというのはそうした相対的な価値観、言うなれば自分の思いが砕かれるところにあるのだと思います。

私が私自身の思いに苦しんでいるということです。

また質問お待ちしてます。

{{count}}
有り難し
おきもち

はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
このお坊さんを応援する

死の次は生きることを考えてください。

「死にたいと思う事」誰にもあるのではないでしょうか。
様々な困難に出会った時は、大抵はそのように思いおかしなことでもありません。その場から逃げれると思うからです。でも、実際には、そんなことをしても解決できないと、心のどこかで知っているので、死ぬのをやめて生きよう頑張ろうと思うのでしょう。
まきさんは、今、とても苦しい状況にあるのだと思います。何をしても楽しくない、何を食べても美味しくない、人とあっても感動しない。何事にも関心がもてない状況かと思います。たしかに家族も恋人もいて、本当は楽しいはずなのに楽しくないという矛盾。
やはり、自分自身を認めれないという、根底にある考え方が邪魔をしていますね。
自分自身を認めれないというのは、随分以前からあったのでしょう。そういう自分から逃げていたのが、いよいよ逃げれなくなってきたのだと思います。

どんなに周囲の人が、まきさんは素晴らしいねと言われても、肝心なご本人がそう思っていないので、決して増上慢ではなく素直に認めることができないジレンマが、ますます自分を追い込むのでしょう。

まずは、素直に自分を認めてあげることからはじめましょう。最後は自分が自分を好きなならなければ、人も好きになれないのです。
死ぬ勇気がないから生きる。のであれば、楽しくなければ生き地獄です。
死について考えたら、一旦、死を考えずに、楽しく生きることを考えてみたらどうですか。
もう一つ、体調が良くない時もマイナス思考になりがちです。自分の体調はどうなのかも合わせて考えてください。

{{count}}
有り難し
おきもち

日蓮宗のお寺で、名古屋市南区にあります。 ”お寺は生きている人のためにも...
このお坊さんを応援する

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ