自利利他について教えてください。
小さな頃からなにか困ったことが起きると私が我慢すれば良いと相手を優先し自分で自分の気持ちを押し殺してしまいます。
人のために自分の限界を超えるまで行動して後から逆に迷惑をかけてしまうこともあります。
そしてそのような状態の時幸せかと言われるとむしろ苦しみを感じていて、心も体も悲鳴をあげて、誰もいない時にほっと幸せを感じます。
最近自利利他という言葉を知りました。
この言葉について調べてみたのですがわからないので詳しくお聞きしたいです。
特に自利とはどういうことを言うのでしょうか?
このままでは誰も幸せになれず自分も潰れてしまいそうで怖いです。
よろしくお願いいたします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
相談者様の悩みに沿っているかわかりませんが、一つの視点として
勇気をもって蓮の葉に質問していただき有難うございます。自利利他という言葉は非常に広い意味の概念です。宗派によっても考え方が異なるので私なりに最初の取っ掛かりになると思う事を若干述べさせていただきたいと思います(蓮の葉は千字の文字制限があります…)
まず最初に、仏教は世間の幸せを求めたり・得られる教えではないです。仏教の目的は、生死解脱というように、輪廻の迷いを出ることです。世間を離れることなんですね。しかし、その副産物として、心が落ち着いたり、世俗とは違う視野を賜るということがあります。世間で幸せになること自体を目的にしているのではないという面があります。お釈迦様自体が元王子様で世間の戦争や争い、欲望だらけの痛ましい姿をみて、もうこういう世界は辛すぎる、やっていけないと出家されたのですから。釈尊の言葉は一見するとものすごく冷たいです「親密になることからは恐れが生じ、家庭生活からは汚れの塵が生ずる。家庭生活もなく、親密になることもない、それこそが、賢者の立場である。(スッタニパータ)」「この世間が燃え上がっているというのに、いったい何が笑いだ、何が歓びだ。お前たちは暗闇に覆われていながら、どうして明かりを探し求めないのだ。(ダンマパダ)」…等。暗いのではなく、ごまかしなく見極めている人間の見方と言えましょう。
自利とは自らの修行によって自身が利益を得る事。仏道を完成させる事、させて行く事です。利他とは、他者を利益する事で、他の衆生に、功徳を施す事です。大乗仏教では、利他がそのまま自利になると考えられるようになっていきました。ですから、自利も利他もその方向性が悟りに向かったものであることが基本です。何でも利他になるという考えはお釈迦様の考えではない。
人間の問題点は無明です。無明というのは真実を知らないという事です。私たちは、一生懸命に良い事をしてそれが原因で人を苦しめる事だってあるのです。人を傷つける事はよくありませんが、傷つけまいとしても人を傷つける事がある。例えば、教育熱心な親が子供の為にと思って一生懸命やっている事が子供を苦しめたり、歪ませたりしてしまうことがありますね。何が正しいか分からない(=無明・無智)。そうした人間の存在全体を悲しみ、真実を見せようとする働きが仏法です。
今後もご自身で勉強したり他の僧侶の意見も聞いて下さい。また質問いつでも下さい。
ディズニーランドのホスピタリティー
【自利利他】
相手様の喜び=自分の喜び
単なる自己犠牲は、【自利利他円満】とは程遠い。
ある日、子どもを亡くした夫婦が、ディズニーランドのレストランでお子様ランチを2つ注文したそうな。しかし、ディズニーランドではお子様ランチは子どもにしか提供できないルールになっている。店員は大人には出せないと丁重に断ると、夫婦は「申し訳なかった。今日は子どもの命日だったもので…」と残念そうにこぼした。それを聞いた店員は、ルールを差し置いてお子様ランチを用意し「本日は、ようこそお越しくださいました。親子"3人"でごゆっくりどうぞ。」と言葉をかけ3人分を提供した。夫婦は大粒の涙を流して喜んだ。
後日、その夫婦からディズニーランドに感謝の手紙が届き、それを受け取った店員はあまりの嬉しさに泣き崩れたという。
ディズニーランドは、とかくマニュアルが細かく厳しいことで有名だが、来園者に喜んでもらう為なら、マニュアルを飛び越えてでもどんどん尽力する事を勧めている。そこに生まれる感動に魅せられ、心から喜んで懸命に働く従業員のそのほとんどは、なんとアルバイトだという。つまり、待遇云々ではなく、お客さんが楽しむ姿が見たくて、お客さんの喜ぶ姿が嬉しくて、彼らは喜んで献身的に働いている。
自利が先、利他が後
初期仏教の順番では、
まず、
私が幸せでありますように(自利)、と心を育てて、
次に、
私の親しい生命が幸せでありますように(自利利他)、と心を育てて、
最後に、
すべての生命が幸せでありますように(仏の気持ち?)、と心を育てる
という順番で、心を大きく成長させて頑張ります。
利己的な人には「周りのことも考えなさい」と言いますが、逆に、自己犠牲的に頑張る人には、「それで、あなた自身は幸せですか?疲れてないですか?あなたのご家族は大丈夫ですか?」などと、自分の幸せを達成できているかどうか振り返ってもらいます。
まず、自分の幸せを確保してください。自分がしっかりできていれば、初めて、他者のために動けるようになります。共倒れにならなくて済みます。
溺れている人を助けることができるのは、泳ぎもプロで波や水温などの状況を把握できる冷静な人だけです。
自分が喜ぶこと。相手も喜ぶこと。
自分が苦しくないこと。
相手も苦しくないこと。
何のために相手に尽くすのでしょうか?
それで相手は喜んでくれるのでしょうか?
あなたが苦しそうでも相手は喜ぶでしょうか?
「相手が喜んでくれることが自分の喜び」
ということはありますが
あなたは既に苦しんでしまっています。
これからは
あなたの楽しみを優先しませんか?
あなたが楽しんで相手も楽しんでくることを
見つけてみませんか?
仏教が目指すのは悟り
仏教が目指す「自利」とは、悟りです。
なぜ悟りを目指すかというと、悟れば悩み苦しみがなくなり、また、苦しみを繰り返す輪廻転生からも解脱できるからです。
悩み苦しみは、煩悩を原因として生じます。
煩悩をなくすためには、悟る(真理に気づき納得する)必要があります。
悟って煩悩がなくなれば、生への執着もなくなるので、輪廻転生からも解放されます。
仏教で修行して悟りを目指すのは、「自利」だと言えます。
目に留まったので一言
自利利他
又は、自行化他(じぎょうけた)とも言います。
一言でいえば、菩薩のことで、自らも行じ、他を救う。
菩薩と言えば、遠くの彼方におられ拝む対象と思いがちですが、本当は、私たちの行動、すなわち、自分も努力向上し、そして他人を救う。という行動そのものが菩薩の行いをしていることです。
かおりさんは、自分を犠牲にしてまで行う、ゆえに苦しいのでしょう。本当は、自分も楽しみながら、一緒に豊かに安穏になることが理想なのです。
難しいことはありません。今までされれきたことに、自分も自信を持って喜んでください。そしてこれからは、他の方と一緒に喜べはいいのです。
それが本当の「自利」です。
質問者からのお礼
たくさんのご回答誠にありがとうございました。
ご回答を良く読み自分を見つめ直していきたいと思います。
このような貴重な機会をいただき本当にありがとうございました。